1.マルタとマリア物語
・「マルタとマリア」の物語は、ルカ福音書だけが伝える。物語はイエスが旅の途中に、ベタニヤ村のマルタとマリアの家にお入りになることから始まる。姉妹の性格は対照的で、姉のマルタは活動型、妹のマリアは静思型だった。姉マルタは一行に馳走するため台所で懸命に立ち働き、妹マリアはイエスの足元に座りイエスの話に聞いた。マルタの心にもてなしを手伝わないマリアへの不満が起き、彼女はイエスに訴えた。
―ルカ10:38-40「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足元に座って、その話しに聞き入っていた。マルタはいろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って来て言った。『主よ、私の姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝うようにおっしゃってください。』」
・マルタは、「女は客が来たらもてなすのが仕事だ、姉の自分がこんなに忙しくしているのに手伝おうともしない」とマリアを批判したのであろう。もしイエスの足元に座って話を聞いていたのが弟のラザロであれば、マルタは何も言わなかったかも知れない。しかし、イエスはマルタが予想もしなかった忠告をマルタにされる。「必要なことはただ一つだけだ、マリアは良い方を選んだ」と。
―ルカ10:41-42「主はお答えになった『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことは唯一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取りあげてはならない。』」
・イエスはマルタの働きを評価しながら、同時に彼女に大事なことを教えようとされる。イエスの答えの中心は、「多くのこと」と、「ただ一つ」の対照だ。この世界での生活が要求する「多くのこと」と、神が求められる「ただ一つ」のことの対照である。私たちは世で生きていく限り、生活するための多くの思い煩いがあり、心を乱すことが山ほどあるが、私たちが神から恵みと祝福を受けるために必要なことは「ただ一つ」、神の言葉を聴くことだけだ。イエスはマルタに言われる「マルタよ、あなたは私の言葉を聞かずに、もてなそうとして体を動かし、体が疲れ、心まで乱れてしまった。そして、自分だけが働き、マリアは怠けていると思い込んでしまった。マルタよ、あなたの考え方があなたの心を乱している。私へのもてなしは二つある。私に馳走することと、私の言葉を聞くことだ、マリアはその良い方、私の言葉を聞く方を選んだのだ」。
2.マルタの立場から物語を見る
・多くの人々が、この物語に女性の対照的な二つのタイプを想定する。つまり、行動的、能動的なマルタ的生き方と、瞑想的、受動的なマリア的生き方の二つのタイプである。一般的に男性はマリア的女性を好み、それに対して女性はマルタ的女性を支持する。そのため多くの女性たちは、ルカ福音書が「イエスがマリアを肯定し、マルタを否定するニューアンスを打ち出している」ことに疑問を呈する。
-「皆がマリアのようにイエスの足元に座って話を聞いていたら、誰が食事の支度をするのか」、
-「マルタのようにほかの人のために働く人がいなければ世間はなり立たない」。
・ドイツのプロテスタント教会では多くの修道女たちが、共同生活をしながら、福祉施設や教会のために働き、その宿泊施設は「マルタの家」と呼ばれる。「マリアの家」ではなく、「マルタの家」であることに女性たちのこだわりがある。
・物語をマルタの立場から読んでみる。マルタは、イエスと弟子たちが長旅に疲れ、埃まみれであることを見て、手や足を洗う水を用意し、渇きをいやす飲み物を差し出した。そして今、食事の支度に忙殺されている。10人を超える人々のためにパンを焼き、野菜を洗い、ぶどう酒を準備し、マルタはてんてこ舞いだ。他方、妹のマリアは食事の準備を手伝おうともせず、イエスの足元に座って話を聞いている。だから彼女はイエスに苦情を申し立てる。「主よ、私の姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。
・マルタはイエスと弟子たちをもてなすために一生懸命なのに、マリアは手伝おうとはせず、イエスもそれをとがめない。自分の正しさが否定されたという憤りが、マルタの言葉遣いの中に滲み出ている。マルタは世話好きの女性であり、献身的に家のために尽くす一家の主婦だった。身を粉にして家族のために働いているのに誰も評価してくれない、その不満が爆発した。この不満は現代日本においても、主婦の働きが正当に評価されず、多くの女性たちが不満を覚えているのと同じであろう。家事労働を外部化し、家政婦やヘルパーに仕事を依頼すると、時給1000円以上の支払いが必要で、それは年間ベースでは300万円から400万円となる。主婦はそれだけの仕事をしているのに、世間は「外で働く女性を高く評価し、主婦の評価は低い」。主婦の働きによって家庭は維持されているのに、家族からは感謝の言葉もなく、夫からは「それが主婦の役割だ」と当然視される。もう耐えられない、マルタの言葉に多くの女性が共感するのは当然であろう。
3.物語から何を聞くか
・イエスがマルタに言われたことは「マリアを見習いなさい」ということではなく、「あなたの忙しい仕事を一旦中断して、今は私の話を聞いたらどうか。食べるパンも大事だが、命のパンはもっと大事なのではないか」ということであろう。「私たちはどこから来て、どこへ行くのか。私たちは何者か」、いくら考えても正解などなく、私たちは考えることをやめる。それでなくとも忙しい、学校を卒業し、就職し、恋をして結婚する。やがて子供が出来て、小さな家を買い、会社で少しだけ昇進する。そのうち子どもは大きくなり、年老いた両親は介護が必要になる。考えなければいけないことは次から次へ出てくる」(森達也「私たちはどこから来て、どこに行くのか」)。
・日本基督教団小岩教会の澤正彦牧師は、学校が日曜日に授業参観をすることにより、娘の澤千恵の礼拝参加が妨げられているとして、小岩小学校の校長を相手に、「日曜日の授業参観禁止」を求める訴訟を起こした。日曜日訴訟と呼ばれ、昭和57年に起こされた。その中で澤牧師は主張する「自分の都合で礼拝を休まない。クリスチャンとはそういう存在だ」だと。訴訟の妥当性について賛否は分かれるであろうが、礼拝をそこまで大事に守ることは今日の話に通じるものがある。
・教会では多くの人が洗礼を受けるが、二年たち三年経つと、いつの間にか姿が消える。世の思いわずらいや富や快楽への誘惑が、日曜日の礼拝よりも大きな力を持ち、人々の信仰を食い尽くす現実がある。イエスがマルタを通して私たちに語られることは、「あなたの忙しい仕事を一旦中断して、今は私の話を聞いたらどうか。パンは大事だが、命のパンはもっと大事なのではないか」ということだ。「思いわずらいを一旦やめて、命のパン、神の言葉を食べよ。仕事を一生懸命にすることは大事だが、日曜日は主の日であり、仕事を一旦やめて礼拝に参加する、そして自分の人生の在り方と今後を考える。そうしないと魂が干上がってしまうのではないか」。イエスはそう語られている。
・イエスはマルタの奉仕そのものを否定しているわけではない。問題は彼女がイエスに向かって不平不満をいう態度、あるいは妹を評価しない姿勢だ。当時の社会では、男女の役割には明確な区別があった。宗教的な勤めは第一に男性がするべきことであり、女性は神に仕える男性に奉仕することが要求された。このようなことを考えると、マルタは当時の女性として当然の役割を果たしており、マリアのように座ってラビの話を聞くことは女性としては普通ではない。イエスはそのような男女の役割分担を否定して、マリアの態度を弁護している。このイエスの自由さが男女の役割分担に縛られ、人との比較の中でしか自分や妹を見ることのできなかったマルタにとって、解放されるための「福音」だったのではないか。
・私たちはなぜ、日曜日に教会に集まるのか。神の言葉を聞く為だ。そして教会では神の言葉が語られる「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている・・・そこでは男も女もない」(ガラテヤ3:27-28)。それにもかかわらず、社会の中では男女間に差別があり、教会も伝統的に牧師は男性で、彼は御言葉の学びに専念し、教会の雑事は女性である牧師夫人が行うことが暗黙の了解になっている。男女平等は建前であり、教会でさえ実行されていない。
・日本には女性牧師が少ない現実がある。女性が御言葉を語ることに拒否感を持つ人々が多いからだ。私たちの母教会・南部バプテスト連盟は2000年の信仰告白で、「女性教職の任職禁止」を打ち出した。根拠となった聖書箇所は第一テモテ2:11-15だった。
-第一テモテ2:11-15「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、私は許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかもアダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます」。
・テモテ書はパウロの弟子が書いたと言われているが、パウロの時代から二世代、三世代と下るに従い、教会が保守化し、その中で書かれた。聖書は神の言葉であるが、同時に聖書は人間によって書かれ、それゆえに時代の制約を受けることを認識して読むべきであろう。「マルタとマリア」の物語は、主の足元に座って「御言葉を聞くマリアを排除するな」と明確に伝える。私たちも伝統的役割分担から解放されて、男女の新しい在り方を模索する必要がある。