1.長血を患う女の癒し
・イエスは多くの病人を癒し、治癒者として評判は高まり、病気に悩む大勢の人たちがイエスの下に押し寄せてきた。ある時、群集の後ろから、長い間病気に苦しむ一人の女性が、イエスの衣に触れた。女性の病気は「長血を患う」とされ、慢性の子宮疾患だと思われるが、当時出血を伴う病気は不浄とされ、人前に出ることを禁じられていた。彼女は正面から近づくことは出来ず、後ろからこっそりとイエスの服に触れた。
-ルカ8:42-44「イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった」。
・何とかして治りたいという女性の強い気持ちがイエスに接触させ、「直ちに出血が止まった」。一方イエスの方も「自分の内から力が出て行った」ことに気づかれた。イエスは「私の服に触れたのは誰か」と言われ、女性はイエスの前に出てひれ伏す。イエスは彼女に言われる「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」。
-ルカ8:45-48「イエスは、『私に触れたのはだれか』と言われた・・・ペトロが、『先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです』と言った。しかし、イエスは、『だれかが私に触れた。私から力が出て行ったのを感じたのだ』と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまち癒された次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」。
・並行個所マルコはこの女性の病気を「マスティクス=鞭」という言葉で定義する。鞭、神から与えられた災いとの意味である。当時病気は神から与えられた災いと考えられ、そのため「汚れている」とされた。
-レビ記15:25-26「生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており・・・これらの物に触れた人はすべて汚れる」。
・聖書学者は、治癒奇跡のあるものは実際に生じたと考える。青野太潮は語る「絶対的に帰依した対象である教祖なり指導者なりの一言一句が、血となり肉となる形で、信徒の内に本来備わっている能力(自然治癒力)を引き出し、想像もしなかったような病気の治癒がそこで為されたりする」。そしてイエスが郷里のナザレでは何の奇跡も出来なかった(マルコ6:5-6)を引き、「イエスといえども、相手が彼を全く信用しなければ、そこから何かを引き出すことは全く出来なかった」と述べる。すべての治癒奇跡がこれで説明できるわけではないが、納得できる説明だ(青野太潮「苦難と救済」、現代聖書講座第三巻)。
・ユダヤ人の精神科医V.フランクルはアウシュヴィツ収容所の出来事を「夜と霧」に書いた。彼は人の生死を分けたものは希望の有無だったと語る。
-夜と霧から「収容所で死んでいったのは、体の弱い人たちではなく、希望を失った人たちだった・・・Fは1945年3月30日に解放されるという夢を見た。彼が私に夢の話をした時、まだ充分に希望を持ち、夢が正夢だと信じていた。ところが、夢のお告げの日が近づくのに、収容所に入ってくる軍事情報によると、戦況が3月中に私たちを解放する見込みはどんどん薄れていった。3月29日、Fは突然高熱を発して倒れた。そして3月30日、Fは重篤な譫妄状態におちいり、3月31日、Fは死んだ。死因は発疹チフスだった」。
・フランクルは語る「勇気と希望、あるいはその喪失といった状態と、肉体の免疫性の状態の間に、どのような関係が潜んでいるのかを知る者は、希望と勇気を一瞬にして失うことがどれほど致命的かということも熟知している。仲間Fは、待ちに待った解放の時が訪れなかったことにひどく落胆し、すでに潜伏していた発疹チフスにたいする抵抗力が急速に低下したあげくに命を落としたのだ」。人は希望を失くした時に生命力が果てる。逆に希望を持ち続けるかぎり、生き続ける。長血を患う女性は、神の人として評判の高いこの人に触れれば治るとの一途の思いから、イエスに近付き、触れ、そして癒された。現代医学では、病気を治す力は、人間に本来的に備わっている「自然治癒力」であることを認めている。人体の免疫機能、防衛機能、再生機能が病気を癒し、この機能を促進するために、薬が処方され、栄養のある食べ物が与えられ、十分な休息が与えられて、病気は治る。娘は必死に求めた、その信仰、信頼が病を癒したと言えるのではないか。
2.ヤイロの娘の癒し
・長血を患う女性の話を挟み込むようにして、ヤイロの娘の癒しが語られる。イエスの足元にユダヤ教の指導者ヤイロがひざまずいた。「娘が死にかけている」、極限状況に追い込まれた会堂長は、イエスの癒しのうわさを聞いて、この人ならば娘を治してくれるかもしれないと一縷の望みをいだいて、世間体や打算を超えて、イエスの前にひざまずいた。イエスはヤイロの信仰に感動され、家に向かわれた。
-ルカ8:40-42「イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た」。
・しかしイエスが、長血の女と話している時、「娘は死んだ」との知らせがあった。イエスはヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」と約束された。
-ルカ8:49-51「イエスがまだ話しておられる時に、会堂長の家から人が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。』イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。『恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。』イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。」
・「娘は死んでいない、眠っているだけだ」と言われるイエスを人々は嘲笑した。しかし、娘は生き返った。
-ルカ8:52-55「人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。『泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。』人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。イエスは娘の手を取り、『娘よ、起きなさい』と呼びかけられた。すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。」
・イエスは子どもの手を取って、「娘よ、起きなさい(タリタ、クム)」と言われたとマルコはイエスの肉声をアラム語で記す。この物語は単なる伝承ではなく、歴史的な事実性を持っていると考えられる。「タリタ・クム」というアラム語がそのまま伝承されていることは、この出来事を目撃したペテロたちが強い印象を持ち、そのためにイエスの肉声がそのまま伝承として伝えられた。使徒言行録にも、ペテロがタビタという女性を同じ言葉で生き返らせた記事がある(使徒言行録9:40-41)。
・「必死の信仰に神は答えて下さる」、ヤイロは娘が危篤になり、会堂長としての世間体を捨て、イエスに願い出た。「この人以外には娘の命を救える人はいない」との必死の思いが、「娘に手を置いてやって下さい。そうすれば娘は救われるでしょう」という言葉に現れている。彼には使用人もおり、家族もいた、さらに娘は死の床にあった、通常は本人が出かける状況ではなく、家族か召使を遣わせば良いのに彼自身が出迎えに来ている。また、途上で使いが娘の死を知らせに来るが、召使は「もう先生を煩わすには及ばない」と冷たく言い放つ。イエスを家に迎えた時の人々の対応も冷淡だ。周囲の人々は異端とされたイエスに依頼することに反対していた。それにもかかわらず、彼はイエスを必死に求め、その必死の行為こそが、イエスを動かし、そして神を動かしたのではないか。
・ロシアの作家ドストエフスキーは革命運動に連座し、シベリア流刑の重刑を課せられた。流刑地で読むことを許されていた書籍は聖書のみであり、彼は4年間の獄中生活の中で、聖書、特に福音書を繰り返し読み、ある時「時が歩みを止める」体験をする。2000年前に書かれた聖書の出来事が、「今ここにある」出来事として甦り、時空を超えてイエスに出会う体験をした。その体験が基礎となって、「罪と罰」、「白痴」、「悪霊」、「カラマーゾフの兄弟」等の名作が生まれていく。いずれも聖書の出来事が背景にある。
・ドストエフスキーは、聖書を通して、この世の出来事の意味がはっきりと見え始め、それを作品として発表するようになり、その作品は多くの人々に人生を変えるほどの衝撃を与えた。ドストエフスキーの作品を通して信仰に導かれた人は多いが、その契機になったのはシベリア流刑というおぞましい出来事だった。流刑地での聖書との出会いが無ければ、彼の作品は生まれず、彼の作品を通して信仰に導かれる人もいなかった。神は、「シベリア流刑という不幸な出来事を通してドストエフスキーを祝福された」と言える。
・祈っても治らない病気があり、願っても改善できない生活がある。不遇の死を遂げる信仰者もいる。私たちは「治癒」と「癒し」の区別を考える必要がある。「神は求める者には応えて下さる。しかしその応えは必ずしも私たちの求めるものではない」。何故ならば神は単なる「治癒」ではなく、全人格的な「癒し」を与えてくださる。「神は必死に求める者には必ず応えて下さる」、ヤイロの必死さも長血を患う女性の必死さも報われたとすれば、私たちの必死さもまた報われる。その時、たとえ病を癒されなくとも、癒し以上のものを私たちはいただく。神は私たちに「幸せな人生」ではなく、「意味のある人生」を与えられるのである。