1.嵐に悩む弟子たち
・イエスはガリラヤ中を回って、教え、人々の病を癒された。大勢の人々がイエスの周りに集まって来た。数千人の人が集まったが、食べるものもない群衆を憐れまれたイエスは、手元の五つのパンで、5千人の人を養われた。群衆はその奇跡に驚き、賞賛の声が大波のように広がった。ヨハネの並行個所は記す。
-ヨハネ6:14-15「人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、一人でまた山に退かれた」。
・興奮状態の中で暴動が起こりそうになり、弟子たちもその興奮に巻き込まれていた。そのため、イエスは弟子たちを舟に乗せて向こう岸に行かせ、ご自身は祈るために山に登られた。
-マタイ14:22-23「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るために一人山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた」。
・弟子たちが舟に乗ったのは夕方だった。山の方から強い北風が吹き、舟は湖の真ん中で立ち往生してしまう。強風が吹き荒れ、波は逆巻き、舟は嵐に翻弄される。
-マタイ14:24「ところが舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた」。
・イエスは対岸からそれを見て、弟子たちを救うために、湖上を歩いて、弟子たちのところに行かれた。弟子たちはその姿を見て、幽霊だと思った。
-マタイ14:25-26「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた」。
・「私だ、恐れることは無い」というイエスの言葉に弟子たちは我に帰る。
-マタイ14:27「イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。私だ。恐れることはない。』」
・その時、弟子のペテロが突然に行動を始め、ペテロは水の上を歩き始めた。彼は自分が何をしているかに気づかず、助けるために来られたイエスだけを見つめていた。その時は歩けた。
-マタイ14:28-29「すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ」。
・やがて、風の音が耳に入り、大波が目に入ると、ペテロは怖くなり、沈み始める。イエスはペテロに手を伸ばし、体を引き上げられ、二人が舟に乗り込むと風は静まった。
-マタイ14:30-32「しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった」。
・弟子たちはそれを見て、イエスに告白する「あなたこそ神の子です」。
-マタイ14:33「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」。
2.この物語をどう理解するのか
・不思議な出来事だ。イエスが弟子たちを助けるために湖を歩いて来られた。「水の上を歩く」、そんなことが本当に起こったのか、多くの現代人がこの個所に躓く。この物語はおそらく、復活後のイエスとの出会いを描いたものと聖書学者は理解する。
-E.シュバイツアー「ヨハネ福音書21章7-8節によれば、ペテロは復活したイエスに向かって水の中に飛び込み、彼に向って水の中を歩いて渡る。これがイエスの地上の生涯の中での物語へと発展していったのではないか」(NTDマタイ注解436p)。
・物語が、復活後に顕現されたイエスとの出会いであれば、イエスが水の上を歩かれてもおかしくないし、闇の中を歩いてこられるイエスを見て、弟子たちが幽霊だと思っても不思議はない。ヨハネ福音書では復活のキリストと出会ったペテロたちが「その人がイエスだとはわからなかった」と記す。
-ヨハネ21:4-7「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた。イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」。
・ルカ福音書では、復活のイエスに出会った弟子たちが、顕現されたイエスを幽霊と思ったという記事も残されている。
-ルカ24:36-37「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」。
・これらの記事が復活のイエスとの出会い体験から生まれたものだとすれば、それは私たちにも起こりうる出来事だ。復活体験は言葉では説明の出来ない出来事である。しかしイエスの十字架刑の時に逃げ去った弟子たちが、やがてまた集められ、「イエスは死からよみがえられた。私たちはそれを見た」と宣教を始め、死を持って脅かされても信仰を捨てなかったことは歴史的事実である。何らかの復活体験が為されたのだ。
3.私たちは一人ではない
・「助け主が来られる」、それが物語の主題だ。弟子たちは嵐の中で苦闘しており、イエスは岸からそれを見て、彼らを救い出すために歩き出された。弟子たちには暗くて見えないが、救いは既に始まっている。見えない時、私たちは救い主を幽霊と誤認しておびえるが、「私だ、恐れることは無い」と言う声で安心する。私たちも、取り巻く現実を見て、怖くなって、沈む。しかし、私たちを助けるために来られた方を見つめ続ける時、私たちもまた水の上を歩くことが出来る。仮に不信仰のために一旦沈んでも、助けの手が来る。ペテロはイエスから目をそらしたが、イエスはペテロを見つめ続けておられた。ペテロの手はイエスに届かなったが、イエスが手を伸ばして捕らえて下さった。
・マタイが福音書を書いた当時、教会は迫害と困窮の中にあった。ペテロとパウロという二つの柱をローマ帝国の迫害の中で失い(60年代)、エルサレム教会の指導者ヤコブも殉教し(62年ごろ)、教会自身もユダヤ戦争(66-70年)の嵐の中でエルサレムを追われた。「弟子たちは逆風の中で漕ぎ悩み、教会という舟は沈もうとして」いた。教会の人々は「主は自分たちを見捨てられたのではないか」と疑い始めていた。その教会にマタイは、「漕ぎ悩む弟子たちを助けるためにイエスが来られたように、主は私たちの苦難を知っていてくださる。そして真夜中であっても、私たちを救うために来てくださる」と語った。物語の最後で彼らはイエスを、「本当にあなたは神の子です」といって礼拝する(14:32)。この嵐に悩む小舟は「イエスを主と告白する」教会の物語なのである。
・アウグスチヌスは言う「私には出来ませんが、あなたによって出来ます」。嵐の中で私たちの信仰は揺さぶられ、極度の困難の中で「神はおられるのか」、「おられるのならば何故救ってくださらないのだ」と叫ぶ。嵐の只中において、私たちは神と出会う。平安の中ではなく、困窮の中で救い主と出会う。何故なら、平安の時には神を求めないからだ。嵐は祝福の第一歩だ。嵐の中を一人で歩くことは恐怖だ。しかし、二人であれば、それほど怖くない。しかも、同伴される方が、この嵐を取り去る力をお持ちであれば、何も怖くない。キリストを心に受入れた人にも、嵐が、苦難が迫り、不安になり、動揺し、おじまどう。しかし、私たちは「主よ、助けてください」と叫ぶことが出来、その声に応えて、助け主は来て下さる。現在、どのような苦難があろうとも、その苦しみはやがて喜びに変わる。
・私たちが人生の嵐の中でどうしてよいかわからない時がある。その時、イエスの声が聞こえてくる。それを讃美歌にしたのが、ポール・サイモン作詞の「明日に架ける橋」だ。
-「明日に架ける橋」(Bridge over troubled water)「生きることに疲れ果て、みじめな気持ちで涙ぐんでしまう時、その涙を僕が乾かしてあげよう。僕は君の味方だよ、どんなに辛い時でも、頼る友が見つからない時でも。荒れた海に架ける橋のように、僕はこの身を横たえよう」。
・キリストが私たちの贖いとして自分の身を投げて下さった、神の側から私たちの方に橋を架けて下さった。だから私たちもこの荒海に、人生の嵐が荒れ狂う海に、橋を架けようという歌だ。「明日に架ける橋」は、ベトナム戦争と公民権運動による混迷の70年代にアメリカで生まれ、人種隔離政策が続いていた80年代の南アフリカで歌われ、2001.9.11テロの犠牲者を追悼する集会の中で歌われてきた。今後も事あるたびに歌われて行くであろう。この歌は讃美歌である。