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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年7月28日祈祷会(マタイ15:1-20、人を汚すものは何か)

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1.人を汚すものは何か

 

・マタイ15章はイエスとユダヤ教指導者たちの衝突で始まる。ファリサイ派の人々と律法学者たちは新興勢力のイエスの活動を監視するため、エルサレムの本部から派遣された。彼らは、イエスの弟子たちが食前に手を洗わないと非難した。

-マタイ 15:1-2「そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちがエルサレムからイエスのもとへ来て言った 『なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません』」。

・当時のユダヤは、念入りに手を洗ってからでないと食事をしない。市場から帰った後も沐浴して身を清めてでなければ食事をしない。ユダヤ人の律法は不浄なものに触れることを禁じ、一定の食物については汚れているから食べるなと命じる。ファリサイ人らは規定を厳格に守り、守らない人々を不信仰=罪人と批判していた。食事の前に手を洗うことは、単なる衛生上の問題ではなく、宗教的な儀式であり、イエスと弟子たちは宗教的戒めを破ったとして非難されている。

-マタイ15:3-6「そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にすると言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」。

・当時は「食事の前には手を洗いなさい」という掟だけではなく、どういう順序で、どうやって洗うかまで細かく規定されていた。ファリサイ派はそういう口伝をも律法の一部として守るように強要していた。「衛生に気をつけて暮らしなさい」とい本来の神の教えが、いつの間にか、「食前に手を洗わないものは罪人だ」と言う人間の戒律になっていた。イエスはファリサイ人の偽善を鋭く指摘された。

-マタイ15:7-9「偽善者たちよ、イザヤはあなたたちのことを見事に預言したものだ。『この民は口先では私を敬うが、その心は私から遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしく私をあがめている。』」

・「ファリサイ」とは、「分離する」と言う意味である。彼らは「汚れた民衆から分離した者」、あるいは「罪や汚れから分離した者」と自分たちを考えていた。当時のファリサイ人や律法学者たちは風紀取締官、歩く律法のようになっていて、少しでも律法を破るものがいればそれを非難し、自分たちは律法や儀式を厳格に守ることで神に奉仕していると信じ込んでいた。イエスは彼らを鋭く批判される。

-マタイ23:13「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」。

 

2.人を本当に汚すものは何か

 

・イエスは群集を呼び寄せて言われる「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚す」。

-マタイ15:10-11それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。『聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出るものが人を汚すのである。』」

・話の意味が弟子たちには理解できない。そのためイエスは弟子たちに言葉の解説をされる。

-マタイ15:15-18「するとペトロが、『その譬えを説明してください』と言った。イエスは言われた。『あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されるのが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す』」。

・「外から体に入るものが人を汚す」と当時の人びとは考えていた。私たちは食べると宗教的に汚れてしまうような食物があるとは思わない。それにもかかわらず、この物語は私たちに迫る。「人の中から出て来るもの」、言葉の害を知っているからだ。その言葉の元になっているのは悪い思いだ。言葉と思いが人を汚す。汚れや罪は、元々私たちの内側にあり、その内側にある汚れ、罪が、思いとなり言葉となり行動となって外に現れてくる、そのようにして私たちは汚れた者、罪ある者となるのだとイエスは言っておられる。

-マタイ15:18-20「しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない」。

・私たちも自分の汚れや罪、醜さが自分の内側から生じていることを認めないで、それを外側のせいにする。社会が悪い、景気が悪い、境遇が悪い、だから自分は過ちを犯したと人は弁解する。汚れは自分の外にある、外にある汚れが自分にふりかかってくる、自分は被害者だと思ってしまい、実は汚れは自分自身の中にあるのだということがわからない。

・「外から入ってくるものは人を汚さない」、何故ならば「それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される」からだ。食物は口から入り、消化器官を通ってやがて排出されていく。その間に消化がなされ、栄養分が体に吸収される。食物、つまり外から入ってくるものは、体を通ってまた外に出ていく。それは私たちの中を通過していくだけで、私たちの人間としての本質に関わるものではない。

・それでは、人間の本質は何か。「人間の心から、悪い思いが出て来る」という言葉がそれを示す。「心」こそ、人間の本質であり、神は人間を「心」を持ったものとして造られた。人間の汚れ、罪、それは体ではなくて心に宿る。汚れ、罪が心に宿るということは、私たちの外側の問題ではなく、内側の問題だということだ。汚れや罪は私たちの内側に、心の中に生れ、それが外に現れてくる。

 

3.この物語を私たちはどう聞くか

 

・この記事は元々イエスの弟子たちが手を洗わないで食事をしたことを、ユダヤ教指導者が非難したことから始まった。イエスが神の戒めを根本に戻って解釈されたのに、ユダヤ教指導者は手洗いの儀式のような外面的、形式的な儀式にこだわった。この事件はさらに。その後のイエスと彼らとの対立の遠因となる。イエスが並べ立てて指摘した、人の心から出て人を汚す悪意、殺意、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、悪口などは、イエスの時代を越えて、現代になってもなお、人を損ない、人を汚し続けている。ヤコブ書も「舌を制御できない人間の罪」を語る。

-ヤコブ3:8-10「舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私たちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、このようなことがあってはなりません」。

・私たちは「汚れる」ことを極度に恐れるユダヤ人をおかしいと笑うが、私たちも「汚れる」ことを恐れて暮らしている。学校でも職場でも家庭でも私たちは人の言葉に傷つけられた経験があるから、今度は傷つけられまいと防御して暮らしている。人の口から出るもの、言葉が人を傷つけるのは、言葉が心にあるものを反映しているからだ。「心にもないことを言う」という言葉は真実ではない。人は心にあふれてくることを語る。そして、人の心の中にあるのは悪い思いだ。誰かを妬ましく思うとき、その思いは言葉となって相手を攻撃する。誰かを嫌いだと思うとき、その思いが言葉となって相手を傷つける。そして私たちは「言葉、舌」を制御できない存在なのだ。

-ヤコブ3:5-7「舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は不義の世界です。私たちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」。

・イエスは外からの汚れを心配するユダヤ人に言われた「人の中から出て来るものが人を汚す」。内側の汚れは水でいくら洗っても、清くならない。「これは汚れているから食べない」と努力しても、汚れを気にして、家に清めの水がめを置いても問題は解決しない。イエスの弟子たちは、旧約の食物規定を捨てた。異邦人を教会に迎えるためには、ユダヤ人の慣習を押し付けてはいけないと思ったからだ。こうして、新しい交わりが生まれた。私たちも思い切って捨てる、これまでと変わる必要がある。人間関係を良くしようといくら努力しても、人間関係は改善しない。汚れは私たちの外にあるのではなく、私たちの心の中にあるからだ。私たちの心が変えられること、復活のイエスとの出会いを通して新しく生まれる、そこにしか救いはない。

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