1.神殿崩壊予告
・イエスは23章でエルサレムの崩壊を預言された。
-マタイ23:37-38「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」。
・24章はそのイエスの言葉を軸にした初代教会の終末預言の記事である。弟子たちはイエスの神殿崩壊預言に驚愕する。イエスは弟子たちに「どの石の一つも崩れずに、他の石の上に残ることがない」と、神殿崩壊を預言された。
-マタイ24:1-2「イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。そこでイエスは言われた。『これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。』」
・神殿は紀元70年にローマ軍によって破壊され、ユダヤは滅ぶ。紀元80年代に書かれたマタイ福音書は神殿崩壊と国の滅亡を知っており、「世の終りは来た」と考える教会の人々に、「まだ世の終わりではない」とのメッセージを伝える。「世の終わり」には「イエスが再臨される」と教会は信じていた。
-マタイ24:3-5「イエスがオリ-ブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。『おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わる時には、どんな徴があるのですか。』イエスはお答えになった。『人に惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が多勢現れ、「私がメシアだ」と言って、多くの人を惑わすだろう。』」
・マタイはイエスの言葉を続ける「戦争は必ず起こるだろう。そして戦争の噂は人々の不安をかき立て騒ぎが起きるだろう。しかし、戦争が起こっても、まだ世の終わりではない」と。
-マタイ24:6「『戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。』」
・民族間の紛争や戦争が起こり、飢饉や地震まで起こる。世の終りとしか思えない出来事が次々に起こる。しかし、それらはまだ産みの苦しみの始まりに過ぎない。
-マタイ24:7-8「『民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。』」
・神殿崩壊後、ユダヤ教徒はキリスト者を会堂の集まりから追放した。キリスト者は社会から村八分にされ、迫害された。「信徒はすべての民に憎まれる。憎しみに耐えられず、信仰を捨てる者が出る」との言葉はユダヤ戦争後の教会の実態を背景にしている。
-マタイ24:9-10「『その時、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、私の名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。』」
・その時、偽預言者たちが現れる。彼らは神から遣わされた者ではないのに、それらしく自らを装い、偽りの教えを広める。
-マタイ24:11「『偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。』」
・人々がお互いを信頼せず、愛がなくなる時が来る。しかし、試練を耐え忍ぶ者は救われる。そして、耐え忍び切った者が、福音の証し人となるとマタイは信徒を励ます。
-マタイ24:13-14「『不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国の福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから終りが来る。』」
・マタイの教会は、ユダヤ戦争時に祖国を追われ、シリアに逃れたと見られている。彼らはキリスト者への迫害、戦争、神殿崩壊、飢饉等、世の終わりとされる出来事を文字通りに体験した。西南学院・須藤伊知郎氏は、分析する。
-須藤伊知郎「新約聖書解釈の手引き」から「マタイ共同体はおそらくユダヤ人キリスト者とその後増え始めた異邦人キリスト者からなる混成の教会であり、前者の中核はイエスの語録資料を携えて紀元後30-70年ごろにイスラエル本国でユダヤ人伝道を行っていた人々である。この人々は66-70年に起こった第一次ユダヤ戦争で、非戦の立場を貫いたために、同胞のユダヤ人たちから敵国ローマの協力者とみなされて迫害され、ユダヤでの宣教活動に挫折して、失意のうちに戦争難民となり、北方のシリアに逃れていった」。
-「ユダヤ戦争を生き延びたマタイ教会の中心メンバーは、その破局を透徹した信仰の目で、偏狭な自民族中心主義(ユダヤ人国粋主義者)と、軍事力で覇を唱えようとする帝国主義(ローマ帝国)の破綻を捕らえている。『平和を実現する人々は、幸いである』、『剣を取る者は皆、剣で滅びる』等のイエスの言葉を伝えたのは、帝国の支配に痛めつけられた戦争難民たちであった。マタイ共同体の人々は、戦争はもう二度としないと誓い、敵を愛し迫害する者のために祈ること、これこそが平和を実践し、創っていく唯一の現実的な道であると信じ、行動していたのである」。
・マタイ共同体の決心「戦争はもう二度としない、敵を愛し迫害する者のために祈る、これこそが平和を実践し、創っていく唯一の現実的な道である」の中に、「戦争はもうしない」、「武器はもう捨てる」として憲法9条を起案した日本の父祖たちと同じ息吹がある。
2.終末予告
・15節は、ダニエル9章、12章の記事による終末預言だ。ダニエル書が語る「荒らす憎むべき者」はユダを支配し、神殿を汚したシリア王アンティオコス四世(前175-164年)の迫害を示す。ここでマタイは新しい圧制者ローマが同じように神殿を汚し、破壊したことをダニエル預言の成就として描く
-マタイ24:15「『預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が聖なる場所に立つのを見たら、読者は悟れ』」。
・「敵が来た時は山へ逃げよ」、「屋上にいた者はそのまま逃げよ」、「畑にいる者も上着を取りに帰るな」、戦争の嵐の中で、事態は切迫している。太平洋戦争末期、空襲の中で逃げ惑う日本のキリスト者たちも、これらの言葉を自分たちの出来事として受け止めたかもしれない。
-マタイ24:16-20「『そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。』」
・襲って来る苦難は未曾有の苦難である。神がその期間を短くしてくださらなければ全滅しかない。しかし、神はその期間を短くしてくださる。だから、希望を持て。
―マタイ24:21-22「『そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人のために、その期間を縮めてくださるであろう。』
・混乱の中で偽メシアや偽預言者が出て来るが、従うな。今日の異端の教説も同じ動きの中にある。
-マタイ24:23-28「『そのとき、「見よ、ここにメシアがいる」「いや、ここだ」と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。あなたがたには前もって言っておく。だから、人が、「メシアは荒れ野にいる」と言っても、行ってはならない。また、「見よ、奥の部屋にいる」と言っても信じてはならない。稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。死体のあるところにははげ鷹が集まるものだ。』」
3.私たちは聖書の終末預言をどのように読むか
・初代教会の人々は、自分たちが生きている間に終末が来て、神の国が来ると期待していた。しかし、神殿が滅び、国が亡くなっても、終末は来ない。キリスト再臨の遅延が次第に教会の課題になり始めた。紀元150年ころに書かれた第二ペテロは終末の遅延が課題として描かれる。
-第二ペトロ3:8-9「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせているのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」
・マタイ24章はマルコ13章「小黙示録」を基本に書かれている。マルコ福音書は70年頃に書かれ、ユダヤ戦争は最終段階にあり、エルサレムはローマ軍に包囲されていた。しかし、マタイはエルサレム神殿が崩壊してから十数年経ったころに福音書を書いている。世の終わりであると見られていた神殿が崩壊しても、「神の国の到来」はなく、世界はそのまま存続し、悪しき者(異教徒ローマ)が支配する旧い時代が続いている。信徒の群れは、その歴史の中を歩む。その時、大切なことは、「キリスト来臨」の待望を失うことなく、いつ起こるか分からないという緊迫感を持っていること(目を覚ましていること)が求められる。
-マルコ13:13「私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」