1.子供を祝福する
・ユダヤ人にとって、ラビに手を置いてわが子を祝福してもらうことは、無上の幸いであった。子供たちにイエスの祝福を受けさせたいと願う親たちと、彼らをイエスに近付けまいと叱る弟子たちで、イエスの周りが騒がしくなった。
-マタイ19:13「その時、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供を連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った」。
・子連れの人々を弟子たちはたしなめた「先生は大事な話をしておられる子供が騒げばうるさくて先生の話が聞こえないではないか」。親たちはたじろぐ。同じような出来事は現代の教会でも起きている。牧師が説教をしている、小さい子供たちが教会堂の中を走り回って騒いでいる。うるさくて話が聞こえない、静かにさせてくれないか、会衆は母親をにらみ、にらまれた母親は小さくなり、来週は教会に来るのを止めようと思う。
・イエスが弟子たちを制して、「子供たちを来させなさい」と命じ、騒ぎは収まった。子供を排除するのではなく、うるさくても良いから子供たちであふれている集会を造りなさいと語られている。現代の教会では高齢化の中で、子供たちの姿が会堂から消えている。次世代を担う子供たちがいないことが教会の大きな課題だ。
-マタイ19:14-15「しかし、イエスは言われた『子供たちを来させなさい。私のところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである』。そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた」。
・幼な子は自分一人では生きていくことが出来ない無力の存在だ。しかし同時に、彼らは「親は自分を愛し、守ってくれるはずだ」と無条件に信じている。ここに幼な子の強さがある。同じように神への無条件の信仰、信頼こそが神の国の扉を開くのだとイエスは言われる。「幼な子のようになる」とは、自分の弱さを認め、助けなしには生きていけないことを認めることだ。
2.金持ちの青年
・金持ちの青年がイエスに教えを乞うために来た。彼はたくさんの財産を持ち、地位も高かった。この世で生きるには十分なものを持っていた。しかし何かが欠けている、死んだ後どうなるのかについて確信が持てない。だから「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか」と聞いてきた。
-マタイ19:16「さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った『先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか』」。
・イエスは彼の問題を一目で見抜かれた。彼は善いことをすれば救われると考えているが、善い方である神を求めていない。「神お一人のほかに善い方、救いを与える方はだれもいない」のに、救いを自分の手で勝ち取ろうとしている。イエスは青年に、「善いことはすでに律法の中で明らかにされているのに、なぜ私に聞くのか」と答え、「律法を守りなさい」と付け加えた。
-マタイ19:17「イエスは言われた『なぜ、善いことについて、私に尋ねるのか。善い方はお一人である。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい』」。
・イエスは彼を試すために言われる「戒めを守れば救われると考えるのであれば、守ったらどうか」。
-マタイ19:18-19「男が『どの掟ですか』と尋ねると、イエスは言われた『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい』」。
・イエスが教え終わると、青年は「そのようなことは、みな守ってきました」と答えた。
-マタイ19:20「青年は言った『そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか』」。
・彼には救いの実感がない。だからイエスのもとに来た。イエスは彼に驚くべきことを言われる「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから、私に従いなさい」
-マタイ19:21-22「イエスは言われた『もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に冨を積むことになる。それから、私に従いなさい』。青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」。
・ここでイエスは五つの指示を出しておられる。「行きなさい」、「売り払いなさい」、「施しなさい」、「来なさい」、「従いなさい」。イエスの言葉で彼の問題点が浮き彫りになる。彼は自分の救いのために一生懸命に努力してきたが、その中に「他者」という視点が欠けていた。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」、すべては「自分を愛するように隣人を愛しなさい」という他者のための戒めなのに、彼は自分の救い、満たしのことだけを考えていた、だから彼に信仰の喜びはなかった。それを知るために、「今持っている全てを捨てなさい」と命じられた。しかし彼はあまりにも多くを所有していたので、イエスの言葉に従えなかった。
3.救いとは何か
・立ち去る若者を見て、イエスは言われる「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。弟子たちは驚いた。当時のユダヤ人は豊かになり、安定した生活ができることを神からの祝福だと信じていたからだ。しかし、イエスは金持ちが天の国に入るのは、らくだが針の穴を通るより難しいと言われた。「それでは誰も救われない」、弟子たちは驚いた。イエスは弟子たちを見つめて、「人にはできないことも神ならできる」と語られた。
-マタイ19:23-26「イエスは言われた『はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだやさしい』。弟子たちはこれを聞いて非常に驚き『それでは、だれが救われるだろうか』と言った。イエスは彼らを見つめて『それは人間にできることではないが、神は何でもできる』と言われた」。
・青年は財産があるから救われないのではなく、自分の力で救いを買えると思ったから、神の国から閉めだされた。仮にこの青年が「全てを捨てることは出来ません。でもあなたに従いたいのです」と訴えたら、イエスはそれを喜んで受け入れられたであろう。「人間に出来ることではないが神には出来る」、金持ちの青年はお金や才能があったばかりに自分の力に頼り、「人には出来ない」という場所で引き返してしまった。もし彼が、「神には出来る」という信仰でイエスの下に留まれば、神の国を見ることは出来たであろう。
・初代教会を継承したカトリック教会は、この教えを限定的に受け止め、聖職者には「清貧の誓い=全てを捨てる誓い」をさせるが、一般の人には強制しなかった。他方、カトリック教会の改革者として生まれたプロテスタント教会は、この教えを象徴として受け取った。富そのものは神の祝福であり、感謝していただけばよい。しかし、富を愛し、富に頼ることは禁じた。メソジスト教会の創始者であるジョン・ウェスレーは語った「正直に稼ぎ、できるだけ節約し、必要以外のものは他に与えよ」。
・ペテロは言う「私たちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、私たちは何をいただけるのでしょうか」。
-マタイ19:27「すると、ペトロがイエスに言った『このとおり、私たちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、私たちは何をいただけるのでしょうか』」。
・ペテロは何も捨てていない、イエスから良き物がいただけると思うから、職業を捨ててイエスに従っているだけのことで、イエスの十字架刑後には故郷のガリラヤに戻って漁師の職に戻っている。いつでも戻ることのできる余地を残しながら従っていた。人は全てを捨てて従うことは出来ない。ペテロと富める青年と本質は何も変わらないことを留意すべきだ。
・しかし、イエスはそのようなペテロをとがめない。イエスは「自らが栄光の座につく時、十二弟子もイスラエルの十二部族を治める」と預言する。マタイのみの記述でルカやマルコにはない。明らかにはイエスの言葉ではなく、弟子たちの、あるいは初代教会の願望の言葉であろう。
-マタイ19:28「イエスは一同に言われた『はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる』」。
・イエスはこの世での所有放棄を求められる。弟子たちは自らの家、兄弟、姉妹、父母、子、畑への執着を断ち切らねばならない。生易しいことではないからこそ百倍の報いがある。
-マタイ19:29-30「私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。
・イエスにより集められた十二人の弟子は、社会の下層民であり、社会の先頭に立つような人々ではなかった。彼らは神を信じ、イエスを信ずる以外、何も持たず、イエスと共に伝道の旅へ出立した。彼らにも野心があったが、最後には「持ち物を売り払い、私に従いなさい」という言葉に従った。彼らはこの世では無力な者であり、イエスに従い殉教した愚か者であった。しかし、神の国の視点で見れば、神に選ばれ、大きな役割を担った。彼らの残した手紙や教えは正典となり、2千年の時を超えて人々が読み続けている。