江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年9月22日祈祷会(マタイ19:1-12、結婚と離婚の意味)

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1.離縁についてのイエスの教え

 

・イエスはヨルダン川対岸のユダヤ地方に行かれた。イエスの教えと癒しを求める人々が大勢に付き従った。イエスは行く先々で病人を癒された。イエスに付き従う群れの中に、イエスを監視するファリサイ派の人々がいた。彼らはイエスに罠を仕掛けるために離縁問題を持ちだした。

-マタイ19:3「ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、『何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか』と言った」。

・律法の立場からは離縁が許されていた。当然にそれを知っているファリサイ人が質問をしたのは、イエスが姦淫に対して厳しい態度を取っておられることを聞き知って、イエスから「離縁は許されない」という言葉を引き出し、イエスが律法の教えに従っていないことを明らかにするためだった。

-申命記24:1「人が妻をめとり。その夫となってから、何か恥ずべきことを見出し、気にいらなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」。

・「妻に恥ずべきことを見いだし」という離婚理由について、ラビたちの間で論争があり、「姦通等の不品行だけに限るべきだ」と厳格に解釈するシャンマイ派と、「食物を焦がす」ことまで含めて広く解釈するヒレル派が対立していた。支持が集まっていたヒレル派の考えでは、夫が妻を嫌になればいつでも離縁することが出来た。それに対して、イエスは一切の離婚を禁じる原則論を展開された。

-マタイ19:4-6「イエスはお答えになった。『あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった』。そして、こうも言われた『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない』」。

・神は人を男と女に造られ、男女の交わりを通して命が継承されていくようにされた。「人が一人でいるのは良くない」から、「彼に合う、助ける者を造ろう」と神は言われた(創世記2:18)。その神の御心をあなた方はないがしろにして、「妻が年老いたので若い妻を娶りたい」とか、「他の女性の方が好ましくなったので離縁したい」とかいう人間の掟を作り上げている。それが神の御心ではないことは明らかだ。神が望んでおられることは、「二人が一体となって生きる」こと、「神の前に対等で平等な存在として生きる」ことだ。だから「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。

・留意すべきは、イエスがここで「離婚の絶対禁止」を言われているのではなく、「男の身勝手な行為によって経済的、社会的困窮に妻を追いやるような離婚は許されない」ことを示されたことだ。当時の女性は経済的には夫に頼って生きていたから、実際に夫に追い出され、路頭に迷う多くの妻たちをイエスは目にされ、「そのような勝手を神は許されない」とされた。

 

2.男性優位だったユダヤ人の結婚

 

・ファリサイ派の人々は、反問する「では、なぜモ-セは離縁状を渡して離縁するよう命じたのか」。

-マタイ19:7-8「すると、彼らはイエスに言った『では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか』。イエスは言われた『あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない』」。

・モ-セは不当な離婚から女性を守るため、離縁状で離婚の理由を明白に示すことを男性に求めた。そして、イエスは離婚を禁じる厳しい言葉を付け加えられた。

-マタイ19:9「言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる」。

・当時のユダヤ人の結婚の現実は、結婚の理想を裏切っていた。当時は親か仲介人により、男性の社会的地位や財力により結婚相手が選ばれていた。その結果、女性の意志は無視され、女性は親か夫の所有物のように扱われることになり、本人同志の愛情で結ばれるなど考慮されなかった。女性が一度も会ったことのない男性と婚約させられることも珍しくはなかった。さらに離婚の主導権は夫側にあり、女性は自ら離婚を申し出ることはできなかった。

 

3.弟子たちが抱いた結婚への疑問

 

・イエスの教えは弟子たちに、「離婚がそんなに難しいものなら、もう結婚したくない」と言わせるほど厳しいものだった。イエスはモ-セが許容した離婚条件まで否定された。しかし、イエスは結婚そのものを否定されたのではない。祝福されている結婚を人が歪めてしまうことを批判された。そしてイエスは「結婚しない」という選択肢もありうることを示された。

-マタイ19:10-12「弟子たちは、『夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです』と言った。イエスは言われた『だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい』」。

・ここで注目すべきことは、イエスは倫理を説かれたのではなく、福音を説かれたということだ。福音書は「小さき者をつまずかせるな」、「小さき者を大事にせよ」とイエスが言われたことを記録する(マタイ18章他)。その文脈の中で、小さき者をつまずかせるような、身勝手な離婚をイエスは禁止された。イエスの時代は男性優位社会であり、妻は夫と離れては生活していくことが出来なかった。だから離縁にしても妻の側からの申し出はありえず、離縁といえば「夫が妻を追い出す」ことだった。その文脈の中で語られた「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」を、状況のまるで異なる現代に適用して離婚を禁止するのは、「神の御心をないがしろにする」行為になりかねない。

・カトリック教会はイエスの教えを倫理として受取り、離婚を禁止するが、このことによって多くの弊害が生じている。ヨーロッパのカトリック国、フランスやイタリアで結婚しない人たちが増えている。若者たちは言う「一度結婚したら離婚できないのであれば、結婚しないほうが良い」。その結果増えているのが同棲だ。同棲と結婚と何が異なるのか、結婚届という一枚の紙を行政当局に出すか出さないかの違いだが、この「紙一枚」が人の生き方を大きく変える。人間が単に、肉体的、生物学的な存在であれば、結婚も同棲も同じだ。しかし人間は霊的な存在でもあり、「健やかな時も病める時も愛し続け、決して裏切りません」と紙一枚であれ誓うのは、人間が人間であるからだ。離婚の自由がないところでは、本当の結婚の意味も失われていく。不倫を英語では「unfaithful」という。それは「誓いに対して誠実ではない」行為なのだ。

・パウロはイエスの教えを受けて、結婚に関する教えを信徒に説いた。

-第一コリント7:8-15「未婚者とやもめに言いますが、皆私のように独りでいるのがよいでしょう。しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、私ではなく、主です。既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。また、夫は妻を離縁してはいけない。その他の人たちに対しては、主ではなく私が言うのですが、ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない・・・しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい・・・平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです」。

 

4.離婚は許されているのか

 

・聖書は離婚を禁止しない。しかしそれは離婚を奨励しているのではなく、人間が人間らしく生きるためには、場合によっては離婚も選択できるということである。離婚の自由を最初に唱えたプロテスタント信仰者は、イギリスの詩人ジョン・ミルトンである。ミルトンは「失楽園」を書いたが、ピュ-リタンの信仰を持ち、信教の自由、言論の自由と共に離婚の自由を唱えた。彼はイエスの言われた言葉を真剣に考えた。イエスは、結婚とは「夫婦が神によって霊的にも身体的にも一心同体となる結びつき」だと言われた。ミルトンも夫と妻との内面的、霊的な結びつきを追求することこそが、神から与えられた結婚の目的であると考えた。その結果、そのような結婚愛が全く失われている場合には、それは神からの結婚とは言えないがゆえに離婚が認められるべきであるという結論に至った。

・ミルトンは、結婚・離婚問題を軽く考えていたのではなく、逆に、結婚を普通以上に重視し、真剣に考えた結果、離婚は許されるべきだとした。ミルトンのこのような結婚・離婚観は、夫と妻との関係において、もう一つの重要な側面を明らかにした。それは、結婚愛は夫と妻との内面的、霊的な結びつきであるという解釈によって、夫と妻とが神の前に完全に対等で平等なものとなったことである。結婚の基本は夫婦の愛情にあり、それこそが「人を男と女に造られた」神の御心に沿うものだというのが、福音的な結婚理解なのである。

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