1.カナンの女の信仰
・「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ4:23)。人々は次から次へ病人をイエスの許に連れて来た。イエスは彼らを癒されたが、癒してもらった人々はイエスの許を去った。イエスは人々の姿に失望された。癒しだけを求め、満たされると去って行く。イエスはユダヤの人びとに失望して異邦人の地、ツロとシドンの地に行かれた。そこはバアル礼拝に象徴される偶像礼拝の盛んな地であった。
-マタイ15:21「イエスはガリラヤを立ち、ティルスとシドンの地方に行かれた」
・「立ち」という言葉は直訳すると「退く」と言う意味だ。イエスはガリラヤでの宣教に疲れられて、休息を求めて、異邦人の土地に退かれた。しかし、そこにも人々が押しかけてきた。その中に、娘が悪霊につかれて苦しんでいる女が、イエスの評判を聞き、治して欲しいと求めて来た。
-マタイ15:22「すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ」。
・「悪霊に苦しめられている」、重い精神障害を病んでいたのであろう。医者や祈祷師の所に行ったが、誰も治せなかった。女はわらにもすがる思いでイエスのところに来た。「叫んだ」、原文では「わめく、大声で叫ぶ」の意味だ。髪を振り乱し、金切り声を上げて、娘の癒しをイエスに訴えた。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。弟子たちはたまりかねてイエスに言った「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」。
-マタイ15:23「しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので』」。
・弟子たちはこの母子に対して何の同情も寄せない。異邦人への差別意識と女性蔑視があったのだろうか。イエスは女に対して言われた「私はイスラエルの家の羊のところにしか遣わされていない」。
-マタイ15:24「イエスは『私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった」。
・「私はイスラエルを救うために、父から派遣されてきた」、「まずイスラエルの民を」というのがイエスのお考えだった。しかし、女はあきらめなかった「主よ、助けてください。あなた以外に頼る人はいないのです、誰も治せなかった、あなたが見捨てたら、私たち親子は死ぬしかないのです」と女は訴えた。
-マタイ15:25「しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った」。
・女は必死だった。彼女はイエスの前にひれ伏した。土下座して、イエスの救いを求めた。その女にイエスは言われた「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。しかし女はくじけなかった。
-マタイ15:26-27「イエスが、『子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』とお答えになると、女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです』」。
・犬は異邦人を指す。イエスは言われた「私はイスラエルの子供たちを救うために来た。異邦人の救いは、私ではない誰かが行うであろう」。女はくじけない。「その通りです、私たちは選ばれた民ではありません。まずイスラエルの子供もたちが食べるべきです。しかし、神は私たち異邦人にも恵みを拒否される方ではありません」。イエスは女に言われた「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」。「あなたの信仰はイスラエル人より大きい。彼らは当然の権利のごとくに私の癒しを要求したが、あなたは神の憐れみを求めた。父はあなたを憐れんでくださる」。イエスはこれまでの伝道方針を破って、異邦人の娘を癒された。
-マタイ15:28「そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように』。そのとき、娘の病気はいやされた」。
2.この物語が示すもの
・イエスは女の求めを三度拒絶された。最初は女の叫びを無視され、二度目は「異邦人を癒すことは私の使命ではない」と言われ、三度目は「神の力を異邦人に用いることは私には許されていない」と言われた。このような拒絶の体験を私たちもする。病や苦しみが与えられた時、私たちは必死になって祈る「主よ、どうか憐れんでください」。しかし、何の答えもない。その時、私たちは祈りが拒絶されたと怒り、祈りを止める。この教会にも過去に多くの人が、御自分の、あるいはお子さんの癒しを求めて来られた。そして癒されないと知ると、失望して去って行かれた。カナンの女は必死に求めた。無視され、拒絶されても、求めた。他にあてが無かったからだ。この熱心さがイエスの心を動かした。
・しかし、同時に、私たちはもう一つの現実を知る必要がある。それは、どんなに求めても癒されない病があり、どんなに求めても取り除かれない苦しみがあるという事実だ。心の病に苦しむ娘を持った母親はこう書いている。
-ある母親の手記から「聖書にイエス様が病人や悪霊に取りつかれている人たちをおいやしになった事が出てきます。その度に思うのは娘のことです。9歳の一人娘は知的障害で自閉症です。もしその当時、私が『イエスと言う救い主が現れて病人を治している』と聞けば、娘を連れてどんなに遠くても行ったことでしょう。『何とか治してほしい。どうぞ治してください』と祈っていると、時々虚しくなります。障害の重さばかり目に付いてしまい、絶望的になります」。
・心の病を持つ子がいる家族の苦悩は重い。全国精神障害者家族会「心の病-家族の体験」という本を読むと、多くの苦しみの言葉がある。ある母親は、精神分裂病で入院した娘から「私の人生を返せ」と言われて泣き崩れた。夫から「娘がこうなったのはお前のせいだ」といわれて、子を殺して自分も死のうと考えた人もいる。しかし、多くの経験者は言う「何故ですかと叫び続ける時、苦しみの大きさに押し潰されてしまう。解決が見えないからだ。しかし、何をすべきかと考えた時に、この状態を受入れられるようになる」。カナンの女も思っただろう「私は何故こんなに苦しまなければいけないのか」。彼女はイエスと対話するうちに、神は私たちの不幸を願っておられるのではなく、幸いを願っておられることに気がついた。だから彼女は言った「子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」。神は私たちを憐れんで下さる。そう信じた。この信仰をイエスは「あなたの信仰は大きい」とほめられた。
3.4千人の給食
・イエス一行はティルスとシドンの旅の後、ガリラヤ湖の岸辺、デカポリス地方へ戻り、イエスが山に登り休んでおられると、大勢の人々が癒しを求めて来た。イエス彼らを癒された。癒しの業に驚いた人々はイスラエルの神を賛美した。「イスラエルの神を賛美した」とのはユダヤ人ではなく、イエスに癒された異邦人であった。
-マタイ15:29-31「イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他大勢の病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。群衆は口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。」
・イエスはカナンの女の娘の癒し、大勢の異邦人の癒し、さらに四千人の群衆への給食までされた。
-マタイ15:35-39「イエスは地面に座るよう群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。残ったパン屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。食べた人は女と子供を別にして、男が四千人であった。イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方へ行かれた。」
・直前の14章には5千人の給食の話があり、ここでは4千人の給食だ。同じような出来事が二度あったのだろうか。マタイはそう理解して二度記し、ルカは同じ話の繰り返しとして、これを省略している。
-マタイ16:8-11「イエスはそれに気づいて言われた。『信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けた時、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けた時は、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい』」。