1.人々はしるしを欲しがる
・サドカイ派とファリサイ派の者たちが共に来て、イエスに『しるし』を求めた。ファリサイ派とサドカイ派は対立していたが、共通の敵イエスに対峙するためにそろって来ている。
-マタイ16:1「ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った」。
・イエスは病人の癒しや五千人への給食を行われたが、ユダヤ教指導者たちは満足せず、しるしを求めた。彼らが求めるしるしは、「神から遣わされたメシア」であるのか、あるいは「神の言葉を語る預言者」であるならば、「その証拠を見せよ」ということであった。イエスはしるしを拒否された。
-マタイ16:2-3「イエスはお答えになった。『あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか』」。
・12章では「しるしを見せよ」と要求する人々に、イエスは「ヨナのしるし」だけが与えられると答えられた。イエスがメシアであることを知りたければ、彼の復活を見よとマタイの教会は主張していたことが反映されている。
-マタイ12:38-41「すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、『先生、しるしを見せてください』と言った。イエスはお答えになった。『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる・・・ここに、ヨナにまさるものがある』」。
・イエスはユダヤ教指導者を残し、その場を去られた。神の子のしるしは言葉で説明して納得できるものではなく、「復活のキリストとの出会い」を体験するしかない出来事である。
-マタイ16:4「『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしの他には、しるしは与えられない。』そしてイエスは彼らを残して立ち去られた。」
2.サドカイ派とファリサイ派のパン種
・イエスは弟子たちとガリラヤ湖対岸へ渡られた。舟の中で弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、どうしようかと話しあっていた。イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派のパン種」に注意せよと教え始められる。弟子たちは自分たちがパンを持ってくるのを忘れたためイエスが叱責されたと勘違いした。
-マタイ16:5-7「弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。イエスは彼らに、『ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい』と言われた。弟子たちは、『これは、パンを持って来なかったからだ』と論じ合っていた」。
・イエスは弟子たちに、「五千人と四千人への給食を思い起こせ」と言われる。「食べるパンについて語られた」のではないことが何故わからないのかと。
-マタイ16:8-10「イエスはそれに気づいて言われた。『信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持って来ないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか、パン五つを五千人に分けた時、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けた時は、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか』。
・イエスはファリサイ派とサドカイ派のパン種に注意せよと弟子たちに教えられた。パン種とは、外面的なしるしを求め、イエスを神から派遣された使者と認めない彼らの生き方である。
-マタイ16:11-12「パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派のパン種に注意しなさい。そのとき、ようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の教えのことだと悟った。」
3.ファリサイ派の愚かさ
・イエスは最初にファリサイ派の愚かさを指摘される。彼らはイエスが7つのパンで4千人を養われる場を目撃した。にもかかわらず彼らはイエスに更なるしるしを求める。7つのパンで4千人を養うのは物理的には不可能であり、7つのパンであれば7人が食べれば終わりだ。それを4千人の人が食べるという奇跡を彼らは目の前に見た。不可能を可能にされる神の業を今彼らは見た。しかし、彼らは更なるしるし、「あなたが神から遣わされたのであればその証拠を見せよ」と求める。イエスは答えられた「しるしは今の時代には決して与えられない」。ファリサイ派の人々も、イエスを受入れなかったナザレの群衆と同じだ。正式なラビ教育も受けず、按手礼も受けていないイエスの権威を彼らは認めず、言葉に耳を貸さない。
・ファリサイ派の人びとは「律法、神の戒めを守れば救われる」と考えた。そのため彼らは律法の規定を細分化し、書かれた律法だけでなく、彼らが定めた口伝律法の順守も求めた。規定を守らない者を「地の民(アム・ハーレツ)」として軽蔑した。ファリサイの名はペリッシュ(分離する)というアラム語から来る。彼らは様々の汚れから自分たちを分離し、身を清く保とうとした。自分を正しいとする者は何を見ても感動しない。イエスが食べるものも無い人々を見て「この群衆がかわいそうだ、彼らは三日間も食べていない」と憐れまれて、人々を養われても、彼らはそれを天からのしるしと見ていない。彼らにとって「自分が救われる」ことが最大の目的なのであって、地の民がお腹をすかしていようが関係がない。
・私たちにもこのファリサイ派のパン種がある。教会に汚い服装のホームレスの人が来たら私たちはどうするのか、「教会は神を求める正しい人が集まる聖なる場所であり、汚い身なりの人が来るところではない」と、私たちがする時、私たちもファリサイ派なのだ。私たちが「主よ、主よ」と自分の救いのみを求め、空腹の4千人の存在を無視したら、私たちもファリサイ派と同じだ。現代の私たちは、数十万、数百万の人びとが餓えで死につつあることを知っており、様々の団体が支援活動を行っていることを知っている。が、それを気にもかけない。「ファリサイ派のパン種に警戒しなさい」というイエスの言葉は、私たちに言われている。
4.弟子たちの愚かさ
・二番目の愚かさは弟子たちの無知である。弟子たちは4千人が養われるのを見た。乏しいものでも分け与える時、多くの祝福が与えられるのを見た。それにもかかわらず、今手元にパンが1つしかなく、みんなが食べることが出来ないと騒いでいる。この愚かさは私たちの内にもある。神は私たちを養ってくださることを教えられながら、子供の教育費はどうする、家のローンの支払いは大丈夫か、このままでは老後が心配だ、私たちの毎日はわずらいに満ちている。イエスが「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。・・・あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。」(マタイ6:31-32)と言われても、私たちは、うわの空で聞き流し、本気で考えようとはしない。
・自分の生存を神に委ねようとしないから、私たちは自分のパンを裂いて他者に与えることが出来ず、「パンは一つしかない、みんなが食べるには足らない」と騒いでいる。人間の目から見ればパンの欠乏は大きな問題である。しかし、神の目から見れば必要なものは与えると約束しているのに、何故信じないのかという問いかけになる。「委ねてみよ、主の恵みを試してみよ」と私たちは問われている。
・食べものが無く4千人が餓えていた時、弟子たちが持っている7つのパンを差し出せば、神は4千人を養うにパンにして下さる。自分たちだけで食べようとする時、7つのパンは7人しか養わない。「なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。あなたがたの心は鈍くなっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞えないのか。まだ思い出さないのか」(マルコ8:17-18)とイエスは言われる。私たちはこの真理を本当に知っているのかと問われる。
・私たちが幸福になりたいのであれば、「今手元にあるパンを二つに割って一つを他者に与えよ」とイザヤは言う。分け与えることをこそ、神が求められていることだ。
-イザヤ58:10-11「飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる。主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ、あなたの骨を強くされる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。」
・アメリカの心理学者マズローは自己実現の五段階欲求説をとなえた。マズローの考えでは、人間はまず「生理的欲求」が満たされることが必要で、その上に「安全性欲求」、「社会的欲求」、「承認欲求」、最後に「自己実現欲求」を求める。しかし、晩年のマズローは「人は五段階がすべて満たされても本当には満たされない」と語る。人間は、「自己実現欲求」が満たされても幸せになれないし、すべてが満たされても「虚しい」と思う存在であり、その虚しさを超えるものこそが、「自己超越欲求(他者欲求)」だとマズローは語る。個人の利益を超えて同胞や社会のために貢献したいという思いが人を生かし、聖書が語るあり方だ。