江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年5月5日祈祷会(マタイ9:27-35、癒し主イエス)

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1.二人の盲人をいやす

 

・イエスが会堂長ヤイロの娘を癒され、その家から出られると、二人の盲人がイエスに近づき、「ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」として、近づいてきた。

-マタイ9:27「イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、『ダビデの子よ。私たちを憐れんでください。』と言いながらついて来た」。

・イエスは「私にできると信じるのか」と盲人たちに言われ、彼らが「信じます」と言ったので、二人の目を癒された。

-マタイ9:28-31「イエスが家に入ると盲人たちがそばに寄って来たので、『私にできると信じるのか』と言われた。二人は『はい、主よ』と言った。そこでイエスが二人の目に触り、『あなたがたの信じているとおりになるように』と言われると、二人は目が見えるようになった。イエスは『このことは、だれにも知らせてはいけない』と彼らに厳しくお命じになった。しかし、二人は外へ出るとその地方一帯にイエスのことを言い広めた」。

・類似の奇跡物語がマタイ20章にもある。同じく「ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」という盲人たちの呼びかけで物語が始まることから、9章と同一の物語と思われる。

-マタイ20:29-34「一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、『主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください』と叫んだ。群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、『主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください』と叫んだ。イエスは立ち止まり、二人を呼んで、『何をしてほしいのか』と言われた。二人は、『主よ、目を開けていただきたいのです』と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った」。

・マタイは「飼い主のいない羊のような民衆をイエスは憐れみ、癒しが為された」と強調する。そのために、9章に癒しの記事を集めて、その中に20章の物語を要約して挿入したのであろう。マタイ9章には「あなたの信仰があなたを救った」、「必死の信仰に神は答えて下さる」との告白が物語の中核にある。

-マタイ9:35-36「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。

・物語の基本になったマルコ福音書ではこの盲人は「バルティマイ」とされている。名前が知られていることはバルティマイがその後イエスの弟子となり、初代教会の人々は彼を知っていたことを示す。

-マルコ10:46-52「一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた・・・イエスは『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は『先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った』。盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」。

 

2.口の利けない人をいやす

 

・9:32以下は悪霊につかれた口のきけない人の癒しである。

-マタイ9:32-34「二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れて来られた。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、『こんなことが今までイスラエルで起こったためしがない』と言った。しかし、ファリサイ派の人々は、『あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している。』と言った。」

・同じ記事がマタイ12章22-32にもある。12章では、この癒しを巡って、ファリサイ派の人々は「ベルゼブル論争(悪魔の頭ベルゼブルの力による癒し)とイエスを非難している。マタイはこの物語の最初の部分だけ、9章に要約して挿入している。

-マタイ12:22-24「そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人がイエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、『この人はダビデの子ではないだろうか』と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、『悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければこの者は悪霊を追い出せはしない』と言った」。

・マタイ12章では、イエスの癒しに対して、ファリサイ人たちが「イエスの力は悪霊の頭ベルゼブルから来るのだ。迷わされてはいけない」(12:24)と主張し、それに対してイエスが反論される

「私のいやしの力がサタンから来るとすれば、それはサタンがサタンを追い出す内輪もめだ。サタンはそんなに愚かではない。私は神の力でサタンを追い出している。もし、神の力がサタンを追い出しているのであれば、神の国は既にあなたたちのところに来ているのだ」(12:25-28)。

・ベルゼブル論争が展開される12章から、癒しの部分だけを取り出して、癒しの諸物語に再編集したのが、このマタイ9章の記事であろう。現代人は、「生まれても苦しむだけの重い病気を背負う子供は生まれない方が幸せだ」と考えるが、これは「障害や病気を持った人は、神に呪われた罪人だ」と弾劾するファリサイ人と同じである。ファリサイ人、あるいは世の人々は、目の前に、病気や障害を持って苦しんでいる人がいても気にかけないし、病気や障害が癒されても喜ばない。イエスが怒られたのは、このような人々が「自分たちこそ神に仕えている」と思っていたことだ。イエスは癒しの業を通して言われる「神は苦しむ人に無関心ではない。神は、病気や障害を持つ人を見て『はらわたがねじれる』怒りを覚え、これを憐れまれる方だ。だから神は私に病をいやす力を与えられた」と。

 

3.牧者なき羊を憐れむイエス

 

・9章35節以下はイエスの癒しの業を総括した個所である。中核の言葉は「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、(イエスは)深く憐れまれた」である。イエスは民と共に苦しみながら、その癒しの業を為された。そこにあるのは奇跡行為者イエスではなく、同情者、共感者イエスである。

-マタイ9:35-38「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。

・カトリック司祭の本田哲郎氏は自分でギリシャ語原典から聖書本文を訳し直した時、福音書に繰り返し出てくる「癒しの意味」が変わってきたと語る。

-本田哲郎「小さくされた人々のための福音」から「文字通り“癒す”という言葉“イオーマイ” が出るのは、マタイとマルコ両福音書について言えば合わせて五回しかない・・・あとはすべて“奉仕する”という意味の、“セラペオー”が用いられる。マタイとマルコ合わせて二十一回も出てくる。英語 Therapy の語源となった言葉だが、これを病人に当てはめると、“看病する”、“手当てする”となる・・・イエスにとって、神の国を実現するために本当に大事なことは、“癒し”を行うことではなく、“手当て”に献身すること、しんどい思いをしている仲間のしんどさを共有する関わりであった」。

・イエスがなされたのは病の治癒ではなく、「病人の苦しみに共感し、手を置かれる行為だった、その結果病が癒されていった」。そしてイエスは弟子たちが自分の業を継承してくれることを深く願われた。このような行為であれば、私たちもできるのではないか。

-マタイ9:38「そこで弟子たちに言われた。『収穫は多いが働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』」

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