江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2021年5月12日祈祷会(マタイ10:1-15、十二人の選びと派遣)

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1.十二人の選びと派遣

 

・マタイは8~9章で、イエスの為された様々な癒しを語り、締めくくる「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(9:35)。イエスの為さったことは、「御国の福音を宣べ、病気を癒された」ことであった。しかし、多くの病人や困窮者がいる。マタイは「イエスは群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(9:36)と記す。羊は、弱く、群れとして羊飼いに導かれなければ、自分で食べ物を得ることも、猛獣から身を守ることもできない。だからイエスは弟子たちに、「あなた方が彼らのために働き人となりなさい」と言われた。

-マタイ9:37-38「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。

・イエスは羊飼いのいない羊たちのために、弟子たちを派遣することを決意された。弟子たちの中から十二人が選び出され、「働き手」として立てられる。

-マタイ10:1「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」。

・イエスによって選ばれ、派遣された人々は、特別に立派な人や、優れた人たちではなかった。ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネはガリラヤ湖の漁師、罪人の代名詞として忌み嫌われていた徴税人のマタイの名もここにあり、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダの名もある。また熱心党(反ローマの武装集団)シモンの名もある。彼らは働き手としての優れた資質を見込まれて弟子となったのでなく、かつては「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていた」、その彼らをイエスが探し出し、弟子として下さった。そして今度は彼らが人々の牧者となるように派遣されていく。

-マタイ10:2-4「十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである」。

 

2.十二人の派遣

 

・イエスは十二人を派遣するに際して語られた

-マタイ10:7-8「行って『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」。

・弟子たちは派遣先で、「病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病者を清くし、悪霊を追い払う」ことが求められ、そのための力が与えられた。それはイエスご自身のみ業の継承である。イエスは派遣する弟子たちに「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と言われた。

-マタイ10:5-6「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」。

・イエスは「イスラエルの家の失われた羊(本田訳「イスラエルの家の打ちのめされた羊」)のところに行けと言われた。イエスは馬小屋の中で生まれられた。「宿屋には彼らのための場所がなかった」(ルカ2:7)。場所、トポス、居場所がない人々がいる。ホームレス支援委員会では「ホームレスとはハウスレスではなく、ホーム(居場所)のない人だ」と定義する。イエスは居場所のない人々のために弟子たちを遣わされた。イエスはさらに弟子たちに言われた「金は一切持っていくな、袋や下着や履物や杖という、最低限の必需品ですらも持っていくな」と。

-マタイ10:9-10a「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」。

・ここにイエスと弟子たちが行っていた伝道の有様が見えてくる。彼らは「枕する所もない」(8:20)場所で眠り、「今日のパンもない」状況下で町や村を放浪して(ルカ6:21)、伝道を続けた。それにもかかわらず、必要なものは与えられた。だからイエスは言われる

-マタイ10:10b「働く者が食べ物を受けるのは当然ではないか」。

・神のための働き手には必要なものが備えられ、与えられる。行った先々の人々が、必要なものを捧げてくれる、それを信じて、神の御手に身を委ねていく。「私たちはそうしてきたではないか」とのイエスは言われた。11節以下には、遣わされた先で何をするべきかが教えられている。

-マタイ10:11-12「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つ時まで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい」。

・「神の国はそこまで来ている。苦しんでいる人々に、シャローム=平安が与えられる。それこそ弟子たちが派遣先でなすべきことだ。福音とは、「良い知らせを伝える」ことであり、相手がそれを受け入れなければ他の場所に行けと語られる。「来る者は拒まず、去る者は追わず」、これが伝道の基本である。

-マタイ10:13「家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる」。

 

  1. 蛇のように賢く、鳩のように素直であれ

 

・弟子たちが派遣される地は危険に満ちており、イエスは彼らに用心するように戒めを与えられた。

-マタイ10:16「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。

・「あなたたちが派遣される場所には狼の群れがいる」と注意される。イエスの宣教活動はファリサイ人や律法学者の敵意と妨害の中でなされた。従って、弟子たちも同じ迫害を受けながら活動せざるを得ない。その時「鳩の素直さと蛇の賢さ」を持てとイエスは言われた。2000年後の現在、日本の地にはどのような狼がいるのだろうか。私たちの周りには、迫害や敵意はないが、「無関心」という狼がいる。

-野村喬「福音と世界」2009年3月号から「日本の社会は教会を問題にしていない。教会が何を主張し、どのような行為をしようと、社会に影響を与えることは出来ない。日本のクリスチャンは人口の1%、絶対的少数者である。しかし少数者の割には、キリスト教に関する本は読まれ、音楽は聞かれている。それはミッションスクールの影響だろう。多くのミッションスクールがあり、教育分野でのキリスト教の影響は大きい。しかしミッションスクールで学ぶ学生のほとんどはクリスチャンにならない。学生にとってキリスト教は社会的教養であって、自分の問題を切り開く宗教的な力ではない」。

・何故人々は文化としてのキリスト教を受入れながら、宗教としてのキリスト教に関心を示さないのか。それは自分たちの直面する問題に対して、教会は無力だと考えているからであろう。人々は希望が持ちにくい状況の中で生きている。若者の三分の一は非正規雇用であり、年収200万円以下で将来家庭を形成するだけの経済力を持てない。正社員の人たちは過剰労働の重みで神経をすり減らしている。十分な年金のない老人世代は将来に不安を感じている。将来に対する展望が開けない、そのような人々に教会は語る言葉を持っているのか。そこが問題の核心となろう。

・歴史家ロドニー・スタークは「キリスト教とローマ帝国」を書いたが、同書によれば、福音書が書かれた紀元100年当時キリスト教徒は数千人という小さな集団であり、200年においても数十万人に満たなかった。その彼らが300年頃から爆発的に増えていく。その時代、繰り返し疫病が流行し、その中で「信徒たちが病人を訪問し、死にゆく人々を看取り、死者を埋葬し、その結果疫病の蔓延が防がれ、人々の関心をキリスト教に向けさせた」とスタークは考える。この事は現在、日本を含めて世界中が苦しんでいるコロナ感染症蔓延の問題について、教会は何が発信できるのかを考えるべきであることを示す。

・「信徒の生きざまが人々を信仰に導いた」、初代教会の伝道が説教や証しという言葉によって為されたのではなく、キリスト者の生き様を通して為された事実は、大きな示唆を与える。私たちが弱肉強食という世の価値観から解放され、病気になってもそれを与えられた恵みとして受け取る、そのような生き方を示していくことこそ伝道なのではないか。言葉ではなく、生き方によって示される伝道は、「福音に無関心な人」をも動かしていく。何故なら、それは彼や彼女の人生の課題を解決する一つの方向を示しているからである。そのような生き方が、キリストの弟子としての生き方であり、イエスは信徒ではなく、弟子を求めておられる。「信徒は自分の救いを願い、弟子は他者の救いを願う」、私たちは新しいイスラエル、神の国を形成するために、この教会に集められた。毎週の礼拝に集まるのは、弟子としての確認の行為である。そして弟子として派遣されていく。教会で捧げる全ての礼拝は、私たちをそれぞれの場に派遣する、派遣礼拝である。

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