1.黙示録最終章
・天使はヨハネに全ての幻を見せた後、「これらの幻は真実であり、書き記して人々に送れ」と命じた。
-黙示録22:6-7「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、御自分の僕たちに示されたのである。見よ、私はすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである」。
・キリストはさらに言われた「この預言の言葉を封印するな。時は近づいている。私はすぐに来るから」。旧約の黙示は閉じるように命じられている(ダニエル8:26「この夜と朝の幻について、私の言うことは真実だ。しかし、お前は見たことを秘密にしておきなさい。まだその日は遠い」)。しかし、ヨハネ黙示録は「閉じるな」と命令されている。
-黙示録22:10-12「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。見よ、私はすぐに来る。私は、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる」。
・イエスは言われる「私はアルファであり、オメガである」。歴史の初めにも終わりにもイエス・キリストが立っている。初めから終わりまで、彼が我々の歴史を支えている。
-黙示録22:13「私はアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」。
・ヨハネは「この書物に何も書き加えるな、除くな」という命令を聞く。旧新約聖書はここに完結する。
-黙示録22:18-19「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、私は証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる」。
2.主よ、来たりませ
・ルターやカルヴァンはヨハネ黙示録に批判的であった。しかし、私たちはこの書をも聖なる書=神の言葉として読んでいく。この命令に応じて、天から地から声が上がる「主よ、来たりませ(アラム語マラナタMaranatha)」。
-黙示録22:17「“霊”と花嫁とが言う『来てください』。これを聞く者も言うが良い『来てください』と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」。
・黙示録の最後は「私はすぐに来る」というイエスの言葉で締めくくられる。
-黙示録22:20 以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、私はすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください」。
・「私はすぐに来る」とキリストは言われた。しかし、キリストの再臨=神の国は現在も来ておらず、世は相変わらず悪の世である。ペテロの時代にも人々はこの問題で悩んだ。私たちはどう考えるべきか。
-第二ペテロ3:9「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」。
・人々は再臨を待ちきれず、「私こそ再臨のイエスである」という主張に耳を傾けた。統一教会は教祖文鮮明こそ再臨のイエスとした。多くの異端が黙示録から生まれたが、それらもまた偶像崇拝である。ヨハネは天使を拝もうとして、「私もまた被造物であり拝むな」と禁じられる。拝むべきは神のみである。
-黙示録22:8-9「私は、これらのことを聞き、また見たヨハネである。聞き、また見たとき、私は、このことを示してくれた天使の足もとにひれ伏して、拝もうとした。すると、天使は私に言った『やめよ。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ』」。
3.黙示録22章の黙想(神の国)
・第一次大戦前、欧州において人々は将来に希望を持っていた。科学技術は進歩し、暮らしは良くなった。しかし、世界大戦では、キリスト者たちが最新の武器を持って殺しあった。バルトはこの殺し合いを見て、もう希望を語れなくなった。彼はひたすら聖書に沈潜し、「ローマ書」を著し、再び希望を見出した。
-バルト・ローマ書第一版序言「パウロは、その時代の子として、その時代の人たちに語りかけた。しかしこの事実よりも遥かに重要なもう一つ別の事実は、彼が神の国の預言者また使徒として、すべての時代のすべての人たちに語りかけていることである・・・私がひたすら注意力を集中したのは、歴史的なものを透視して、永遠の精神である聖書の精神を洞察することであった。かつて重大であったことは、今日もまた重大であり、また今日重大であって、ただの偶然や気まぐれでないものも、かつて重大であったことと直接のかかわりをもっている。我々が自分自身を正しく理解しているならば、我々の問いはパウロの問いである」。
・バルトは語った「かつて重大であったことは、今日もまた重大である」と。キリストの教えは“汝の隣人を愛せ”なのに,なぜ私たちは“汝の隣人を殺せ”に変えてしまったのだろうか。その原因は,私たちがそもそもの初めからキリストを信じていたのではなく,自分たちに都合のいい「キリスト教という宗教」を作って,自己満足してきたからではないかと問いかける。
-バルト・ローマ書講解「宗教は,人間に人生の問題の解決をもたらさず,宗教はむしろ人間そのものを,全く解きがたい謎とする。宗教は,人間の救いでも,救いの発見でもない。むしろ,人間の救われがたさの発見である・・・我々は宗教を,誰に対しても持つように願ったり,勧めたり,受け取るように推薦することはできない。宗教は一つの不幸であって,運命的必然性をもってある人たちに降りかかり,その人たちからまた他の人たちへと移るものである」。
・主イエスは「私は来る」といわれた。人は祈りや修行によって、あるいは戒めを守ることによって救われるとするが、それは救いを人間の側に持ってくる誤りである。救いはあくまでも神からくる。だから私たちは終末=イエスの再臨を待ち望む。
―黙示録22:20「すべてを証しする方が言われる『然り、私はすぐに来る』。アーメン、主イエスよ、来て下さい」。
・かつて伝道とは「人は罪があるためにそのままでは天国に行けないので、イエス・キリストを受け入れよ」という個人救済の論理であった。ここにおいて「罪の赦しの福音を伝える」ことが大きな意味を持っていた。しかし本当の伝道とは「神の信実」を告げ知らせることではないか。神の国がいつ来るのか、私たちは知らないが、私たちがキリストを心の中に迎えた時、そこに神の国が生まれるではないか。
―黙示録3:20「見よ、私は戸口に立って、たたいている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう」。
・「新しい創造」は神のみがなしうる。人の役割は、「神の国を造る」ことではなく、「神の国のために建設する」ことだ。人のこの世での働きが、神の来たるべき「新しい創造」の中で用いられる。人がこの世で行う全ての良いことが、神の働きに包摂される。だから「もし、明日がこの世の最後の日であっても、りんごの木を植える」(ルター)のである。福音の力は、新しい霊性や宗教的体験を個人に提供することではない。それは「神が神であり、イエスが主であり、悪の力が打ち負かされ、神の新しい世界が始まった」という宣言である。福音の力を信じる者は、彼は神の国のプロジェクトの中で自分は何をすべきかを考え始める。