江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年2月19日祈祷会(ヤコブ5章、終りの日を待望して)

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1.富んでいる者たちの罪

 

・ヤコブは富む人々に警告する「あなたの富は朽ち果てるだろう、何故ならそれは不正によって蓄財されたからだ」。

-ヤコブ5:1-3「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたはこの終わりの時のために宝を蓄えたのでした」。

・イエスは「金持ちが天国に入るのは、らくだが針の穴を通るより難しい」と言われた。

-マルコ10:24-26「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。

・富は往々にして不正な手段によって得られる。また富は人を貪欲に導きやすい。「富のあるところに心があれば、隣人のことを気にかけることをしない」。朽ち果てるまで蓄え続ける人間の罪がここにある。

-マタイ6:20-21「富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

・これは現代の私たちの問題でもある。日本においては大量の食材がコンビニストアで捨てられ、他方アフリカでは飢餓のために人々が死んでいる。成長企業の役員には桁外れの報酬が支払われ、派遣や請負労働者は低賃金で、Working Poorを形成する。これはヤコブ書と関連する出来事なのか。

-ヤコブ5:4-6「御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した」。

・バルトは「聖書を新聞のように、そして新聞を聖書のように」読んだと伝えられるが、テキスト(聖書)とコンテキスト(時代状況、背景)を分離せず、聖書の福音の視点から時代を読み、時代状況の視点から福音の現実性を問うという生き生きした応答関係が成り立っていなければいけない(村上伸「ヤコブの手紙」注解から)。ルカ16章「金持ちとラザロの喩え」を自分の問題として読む時何が生じるのだろうか。

-ルカ16:19-23「ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた・・・やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた」。

・この「金持ちとラザロ」の物語を、自分に語られた言葉と聞いて、人生が変えられた人がアルベルト・シュバイツアーだ。シュバイツアーが医者として赤道アフリカに行ったきっかけは、30歳の時に「金持ちとラザロの話」を読んだのがきっかけである。自伝「水と原生林のはざまで」は記す。「金持ちと貧乏なラザロとのたとえ話は我々に向かって話されているように思われる。我々はその金持ちだ。我々は進歩した医学のおかげで、病苦を治す知識と手段を多く手にしている。しかも、この富から受ける莫大な利益を当然なことと考えている。かの植民地には貧乏なラザロである有色の民が我々同様、否それ以上の病苦にさいなまれ、しかもこれと戦う術を知らずにいる。金持ちは思慮がなく、門前の貧乏なラザロの心を聞こうと身を置き換えなかったため、これに罪を犯した。我々はこれと同じだ」。

 

2.忍耐と祈りと

 

・ヤコブは金持ちに収奪され、生活に苦しむ貧しい人々に、「主が来られる時まで忍耐せよ」と勧める。

-ヤコブ5:7-8「主が来られる時まで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです」。

・これは「あきらめの勧め」なのか。違うと思える。「新しい天と新しい地を待ち望む」事こそキリスト者の希望なのだ。かつて社会改革運動に入っていった多くのキリスト者は信仰を失って行った。それは、自己の力に頼り、主を待ち望まなかったから、絶望して挫折していったのである。

-ヨハネ黙示録21:1-4「私はまた、新しい天と新しい地を見た・・・そのとき、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」。

・試練と忍耐の時に人はつぶやき始める。しかし信仰者はつぶやかない。希望があるからである

-ヤコブ5:9-11「兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。忍耐した人たちは幸せだと、私たちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」。

・ヤコブは「常に祈り、讃美せよ」と勧める。祈りと讃美はキリスト者の最大の献げ物である。

-ヤコブ5:13-16「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」。

・信仰から離れた者たちのために祈り、行為しなさい。箴言10:12は語る「愛はすべてのとがを覆う」。

-ヤコブ5:19-20「私の兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです」。

 

3.ヤコブ書に見られる切迫した終末観をどう理解するか

 

・ヤコブを初め初代教会の信徒たちは、「まもなく神の国」が来て、この不公平な社会は終わり、耐えた者は報われると希望していた。

-ヤコブ5:7-9「兄弟たち、主が来られる時まで忍耐しなさい・・・あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです・・・裁く方が戸口に立っておられます」。

・しかし終末は期待通りに来なかった。初代教会は「終末の遅延」に悩まされる。

-第二ペテロ3:4-10「(ある人たちは言う)『主が来るという約束は、一体どうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか』・・・愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます」。

・しかし、終末(神の国)は来なかった。代わりに来たのは「教会」だったと、深井智朗は著書「神学の起源」の中で語る。

-「イエスは神の国の到来を説教したのに、やってきたのは教会だった」という言葉がある。この指摘は、キリスト教宗教の誕生が、実はイエスの教えとは全く違った方向に展開したことを示している。「終末の遅延」という意識と、神学の誕生は深く結びついている。イエスはラディカルな終末論を唱えて、十字架につけられた。イエスの弟子たちの最初の「神学的な努力」のひとつは、「この世の終わりはまだ来ていない」という現実について説明することだった」。

・私たちは終末をどのように理解すればよいのだろうか。モルトマンは終末を待望するとは、「希望を持ち続ける」ことだと語った。聖書の最後は「主よ、来てください」と言われていることの意味を考えたい。

-ヨハネ黙示録22:20-21「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、私はすぐに来る』。アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」。

・教会とは神の国なのか、違うのか。神学校の公開講座「バプテスト史を学ぶ」で、教会の必要性が議論された時、一人の受講生は次のようなレポートを送ってきた。

-バプテスト史受講生レポートから「無教会主義に立つ内村鑑三は、教会とは「エクレシア」すなわち「見えない教会」と考え、「見えない教会」が制度化・組織化して「見える教会」になった時、信仰が石化して内実が失われてしまうとした。他方、人間は弱いので、信仰が十分に根付かないとすぐに枯れてしまう。信仰のための土壌を耕し、そこに種を蒔き、水や肥しを与えて育てるためには、まずは制度による教育が必要で、それが「見える教会」であろう。教会という組織・制度から離れて、健全なキリスト教信仰が、人のうちに根付くことは困難だと思う。組織化が行き過ぎて石化してしまう危険性はあるが、教会による型を取り去られると、よほどしっかりした人でない限り、信仰が揺らぐ。大部分の普通の人にとっては「見える教会」は不可欠だ。内村の理想には共鳴するが、現実の人間には当てはめられないものではないかと思える」。

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