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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年7月10日祈祷会(第一テモテ4章、教会生活のあり方)

投稿日:2019年7月10日 更新日:

2019年7月10日祈祷会(第一テモテ4章、教会生活のあり方)

1.誤った教えに惑わされるな

・教会の中には、誤った教えが繰り返し現れる。その一つが自己救済の教えである。救われるためには、「律法を守り、節制に努めなければいけない」と教える。自己救済の教えは多くの場合禁欲主義の動きとなる。
−第一テモテ4:1-3「霊は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。彼らは自分の良心に焼き印を押されており、結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします」。
・禁欲主義は多くの場合、「性や食べ物の禁止」という形で現れる。欲望を絶つ=修行や禁欲によって、救われるとする運動はどの時代にも起こっている。多くの宗教では、肉食や飲酒を禁じ、また妻子の妻帯を禁じる。それに対して長老は、「全ての食べ物は人を養うために神が作られたものであり、私たちは感謝してそれをいただけばよい。また結婚も神が与えられた祝福である」と教える。
−第一テモテ4:3-5「食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです」。
・パウロは「異教の神殿に捧げられた肉を食べることは許されているか」が議論されたローマの教会へ手紙を書き、「食べるか食べないかが問題ではなく、食べる人が食べない人を批判し、食べない人が食べる人を裁く」ことこそが問題なのだと語る。
−ローマ14:2-3「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」。
・肉を食べることによって躓く人がいるならば、私は肉を食べないとパウロは言う。全ては許されているが、全てが益になるわけではない(第一コリント6:12)。愛の禁欲こそ、キリスト者が求めるべき節制である。
−第一コリント8:8-13「私たちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません・・・それだから、食物のことが私の兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後決して肉を口にしません」。

2.キリストの良い奉仕者であれ

・エフェソ教会のテモテに対して、「信仰の言葉と善い教えに養われて、キリストの奉仕者になりなさい」と勧められている。
−第一テモテ4:6「これらのことを兄弟たちに教えるならば、あなたは、信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります」。
・語る人が御言葉に養われ、霊的喜びに満たされて語る時、その言葉は他者を救うものとなる。
−第一テモテ4:16「自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります」。
・そのために、牧会者は自ら節制する必要がある。それは体の鍛錬=身体的修行よりも、霊的節制である。
−第一テモテ4:7-8「俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです」。
・身体的修行とは自力救済への道である。福音とは、自力救済を捨てて、神に望みをかけることだ。
−第一テモテ4:10「私たちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです」。
・これらのことを教会の信徒に教えなさい。年が若いという理由で軽んじられていけない。あなたは按手され、任職された身なのだ。
−第一テモテ4:11-14「これらのことを命じ、教えなさい。あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません・・・あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです」。
・現代においても、20代、30代で牧師が赴任しても、うまくいかないことが多い。教会の年長者たちは若い牧会者の教えや指導を受け入れることが難しいからだ。テモテへの手紙では教会の年配者に対する配慮が具体的に語られる。
−第一テモテ5:1-3「老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい」。
・初代教会において按手は、聖別と任職の行為として行われた。按手を過度に重視する必要はないが、職務委任の行為として大事にすべきであろう。
−ヤコブ5:13-15「苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい・・・病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます」。
・牧会者の信仰が曲がり、ゆがめられる時、教会は混乱する。善い教え=健全な教えに留まるには、聖書を自分勝手に読み込まず、文脈や歴史の中で読むことが必要だ。戦時下の教会の過ち(天皇崇拝等)は、聖書を自分の思想で読んだことによる。
−第一テモテ4:12-13「言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。私が行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」。

3.教会における任職(按手礼)について

・初代教会の牧会者の任職(叙任)は按手によってなされた。旧約聖書にあるモーセが後継者ヨシュアに手を置いて祈ったことがその模範とされた。
−民数記27:18-20「主はモーセに言われた。『霊に満たされた人、ヌンの子ヨシュアを選んで、手を彼の上に置き、祭司エルアザルと共同体全体の前に立たせて、彼らの見ている前で職に任じなさい。あなたの権威を彼に分け与え、イスラエルの人々の共同体全体を彼に従わせなさい』」。
・初代教会の任職按手の様子が使徒言行録6章の執事の任命式に記されている。
−使徒言行録6:5-6「一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた」。
・使徒言行録13章には海外宣教に出かけるパウロとバルナバに、アンティオキア教会の長老たちが按手を授けて、教会の代表者として送り出した様が記されている。
−使徒言行録13:1-3「アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロを私のために選び出しなさい。私が前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。』そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」。
・テモテはパウロの按手によってエフェソに送り出された旨が第二テモテから推察される。
−第二テモテ1:5-7「あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、私は確信しています。そういうわけで、私が手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。神は、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を私たちにくださったのです」。

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