2019年5月22日祈祷会(第一テサロニケ5章、喜び・祈り・感謝しなさい)
1.終末を迎えるにあたっての現在の生き方
・テサロニケの信徒たちは迫害の中にあり、主イエスが一日も早く来られて、その苦しみの時を終わらせてくれるように祈っていた。パウロも主の再臨の日=終末を待望しているが、それがいつかを求めない。それは神の業であり、人間には計り知ることはできないからだ。
−第一テサロニケ5:1「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません」。
・時=クロノス=この世の時間、時期=カイロス=神の時、終末は神の出来事であり、私たちの時ではないから、私たちにはわからない。ただ神が人間の歴史に介入された、それがイエスの十字架死からの復活であり、その復活によって終末の時は始まったと初代教会の人々は理解した。
−第一テサロニケ5:2-3「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません」。
・私たちにとって最初に来る終末は自分たちの死だ。信仰者は死を恐れる必要はない。何故なら、信仰者にとって、死は慰めであり、救いの時だからだ。死を支配しておられるのは、サタンではなく神である。
−第一テサロニケ5:4-7「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。私たちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います」。
・神は私たちを怒りにではなく、救いに定められた。だから終末は滅びの日ではなく、救いの日である。信仰者にとって、終末=死とは「キリストと共にいる生活に入る」ことだ。心配したり、歎いたりする時ではなく、備えて待ち望む時だ。
−第一テサロニケ5: 8-11「私たちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。神は、私たちを怒りに定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、私たちのために死なれましたが、それは、私たちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」。
2.毎日を励んで生きなさい。
・パウロは「主にあって労苦している人を重んじ、敬いなさい」と語る。教会にあっては、仕える者こそ、尊ばれるべきである。
−第一テサロニケ5:12-13「兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き、戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい」。
・教会は「神の家族」だ。怠けている者(=務めを果たさない者)がいれば戒め、落胆している者(=気落ちしている者)がいれば励まし、信仰の弱い人には配慮する。教会は裁きの場ではなく、赦しと和解の場だ。
−第一テサロニケ5:14「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい」。
・教会の奉仕をしようとしない人、文句ばかり言う人、評論するが働こうとしない人が教会内にいるかもしれない。彼らを恨むまず、彼らに仕えなさい。報いを期待せずにやるべき事をしなさい。
−第一テサロニケ5:15「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい」。
・「いつも喜びなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」とパウロは勧める。
−第一テサロニケ5:16-22「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」。
・「いつも」、「絶えず」、「どんなことにも」喜べと言われている。喜べない時も喜ぶ、それが信仰だ。
−ヘブル12:5-7「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます」。
・第一テサロニケの手紙では、兄弟と言う言葉が14回も用いられ、神という言葉が36回使われている。教会は「神の家族」であり、教会員は相互に兄弟姉妹だ。「神の家族」の形成こそ、神の国のしるしである。
−第一テサロニケ5:25-28「兄弟たち、私たちのためにも祈ってください。すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい。この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、私は主によって強く命じます。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」。
・当該箇所の注解を行った八十川昌代牧師は、手紙の中の「兄弟たち」が、すべて「アデルフォイ」であり、姉妹を指す「アデルファイ」が一度も出てこないことが気になったと記す。「パウロが最初に書いた手紙として、彼の意識の中に教会の女性たちが位置を占めなかったのだろうか。パウロもまた時代的制約の中で、『女と子どもは別にして男が5千人ほどであった』(マタイ14:21)が自明なこととして、染みついていたのであろうか」。難しい問題である。
3.第一テサロニケ5章の黙想(死をどのように迎えるか、二つの事例から)
・日本基督教団議長を務めた鈴木正久牧師は死が迫っていることを知り、嘆いた。信仰者にとっても死は恐怖だ。その彼を再び立ち上がらせたのは、フィリピ書だった。パウロはフィリピ書の中で、「死ぬとはキリストの元に行くことだ」と述べる。鈴木正久牧師は最後に「死を超えた明日」を与えられたことを感謝して死んでいく。
−鈴木正久・病床日記「フィリピ人への手紙を読んでもらっていた時、パウロが自分自身の肉体の死を前にしながら非常に喜びにあふれて他の信徒に語りかけているのを聞きました・・・パウロは、生涯の目標を自分の死の時と考えていません。それを超えてイエス・キリストに出会う日、キリスト・イエスの日と述べています。そしてそれが本当の『明日』なのです。本当に明日というものがあるときに、今日というものが今まで以上に生き生きと私の目の前にあらわれてきました」。
・品川教会前牧師・松村誠一先生は自分の体験した教会員の死と希望を次のように描く。
−松村誠一・日記から「常盤台教会時代、H姉のお連れ合いが癌の末期であった。お見舞いにいった時は、医師にあと一週間かも知れない、と伝えられていた。私は、詩編23編を読み、短くお祈りをして病室を去ろうとしたが、妻のH姉は、『先生、讃美歌を賛美しましょう』と言って、『間もなくかなたの』(新生讃美歌・602番)を賛美し出した。そしてH姉は「じいじ、間もなくイエス様に会えるのよ。じいじ、イエス様と一緒にいることが出来るのよ。」と語りかけていた。その語りかけにお連れ合いは何度もうなずき、『あいよ、あいよ』と応答した。聖書を読んでいる時も祈りの時も、全く表情がなかったお連れ合いが、力のある限りの応答をしたのには驚いた。“イエス様に会える”“天国に招かれている”ということを信じることは人から死の恐怖を取り除き、復活の命に生きる希望が最期まで与えられた、ということを改めて知らされた。