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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年4月3日祈祷会(コロサイ書2章、キリストに結ばれた生活をしなさい)

投稿日:2019年4月3日 更新日:

2019年4月3日祈祷会(コロサイ書2章、キリストに結ばれた生活をしなさい)

1.人の知恵である異端と訣別せよ

・パウロはコロサイ教会を訪問したことは無い。そのパウロがまだ会ったことのないコロサイ教会の人々の為に祈る。何故会ったことも無い人々の為に祈るのか、それは彼らもまた神の民であるからだ。
−コロサイ2:1-5「私が、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、私とまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい・・・私は体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます」。
・コロサイ教会は使徒パウロの協力者エパフロスの宣教によって立てられたが(1:7)、そのエパフロスは今パウロと共にエフェソにいる(4:12)。異端の教えで教会が混乱したため、エパフラスは獄中にいるパウロを訪ねて教会の問題について相談し、パウロは要請を受けて手紙を書いた。パウロは「人を見ずに、キリストを見よ、人を見るから惑わされるのだ」と語る。
−コロサイ2:2-4「人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。私がこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです」。
・巧みな議論、人間の知恵、そのようなものに振り回されるな。「割礼を受ければ救われる」、「善行を積めば天国にいける」、「禁欲すれば清められる」、それはこの世の知恵に過ぎない。救いは人間の行為ではなく、神の恵みなのだ。
−コロサイ2:21-23「『手をつけるな。味わうな。触れるな』などという戒律に縛られているのですか。これらはみな、使えば無くなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。これらは、独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです」。
・手を付けるな=女性に触れるな、結婚し性的な交わりを持つことを汚れと主張する人々が性的禁欲を求めていたようだ。味わうな=汚れているとされる食べ物(例えば豚肉や魚貝類)を食べるなという食物禁制であろう。触れるな=禁じられた食物や飲み物に触れるなという意味だ。コロサイ教会では、禁欲によって救われると考えた人々がその教えを人々に強制していたようだ。断食をする、苦行をする、禁欲する、そこから生まれるのは自己満足のみだ。戒律主義は、守らない人を攻撃する事を通して、他者の救いを閉じる。
−第一ヨハネ4:20-21「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」。
・戒律主義は、守らない人を攻撃する事を通して、自分の救いを確保しようとする。例えば「安息日は守らなければいけない」と考える人は、「日曜日に子供たちの運動会のために礼拝を休む人」を見て、「あの人は不信仰だ」と裁く。安息日=休みなさいという恵みが、他者の救いを閉ざす方に働きうる。
−カール・バルト「日曜日を『礼拝を守らなければいけない日』と考えた時、それは私たちを縛る日になる。日曜日を『礼拝に参加することが出来る日』と受け止めれば、私たちの人生は豊かになる。」
・正しい信仰は他者に向かって開かれていく。救いは人間の行為ではなく、神の恵みだとパウロは語る。
−コロサイ2:16-18「あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません」。

2.キリストに結ばれた生活をしなさい

・このような戒律主義、戒めを守れば救われるとした教えが人々を苦しめてきた。その中でパウロは、手による割礼ではなく、キリストの名による割礼(洗礼)の意味を語る。
−コロサイ2:11-12「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」。
・私たちはなぜ、キリストの名によって洗礼を受けるのか。それは私たちの心の中に私たちが支配できない闇があるからだ。その闇が他者に向かう時、妬みや憎しみや怒りとなり、その闇が自己に向かう時、傲慢や絶望になる。そういう罪の縄目から、キリストは私たちを解放して下さった。
−コロサイ2:13-15「肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、私たちの一切の罪を赦し、規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました」。
・人は律法を守ることによっては救われない。律法が正しいとわかっていても、罪により行いえないからだ。それはかつてパウロも経験した。かつての自分は罪の中に死んでいたとパウロは告白する。
−ローマ7:18-23「私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、私が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」。
・しかし、私たちはキリストに出会った。出会って、罪から解放された。キリストに従うために、洗礼を受けた。この洗礼を通して、私たちは根本から変えられた。私たちはキリストにつながれたのだから、キリスト者として生きる。それはキリストに根を下ろした生活、感謝して生きる生活だ。それが行為として現れる。行為が私たちを救うのではなく、救われたから行為する。
−コロサイ2:6-7「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい」。

3.コロサイ2章から3章へ

・キリスト者として生きるとは「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る」ことだとパウロは語る。
−コロサイ3:9-10「あなた方は新しく創造された、だから古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達しなさい」。
・キリスト者はその行動基準を、キリストの十字架の中に見出す。パウロは招きの言葉を語る。
−コロサイ3:12-13「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」。
・新しい人を着るとは、「憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容」を着るということだ。私たちはキリストに出会う前は古い人を着ていた。
−コロサイ3:5「かつてあなた方は、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲に生きていた」。
・「みだらな行い、不潔な行い」は性的不品行を指す。当時の社会では、不倫や売春はありふれていた。人をそのような行為に走らせるものが「情欲」だ。「悪い欲望、貪欲」とは、私たちに中にあるエゴイズム、自分さえ良ければ良いという罪だ。かつての私たちは相手を利用することも、攻撃することも、貪ることも平気で行った。私たちは損得勘定の中でしか人間関係を生きてこなかった。だから人間関係が破たんし、苦しんできた。しかしキリストに出会ってその古い過去に死んだ。「洗礼によってキリストと共に葬られた」。私たちは「キリストの復活と共に新しい命をいただいた」。新しい人を着た私たちは祈る。
−新しい衣を着た者の祈り「あなたが私の罪を赦して下さったから、私も隣人の罪を赦します。あなたが私の足を洗って下さったから、私も隣人の足を洗っていきます。あなたが自分の身を裂いて私を救って下さったから、私も自分の財布を開いて隣人のためのパンを買い求めます」。

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