江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年11月27日祈祷会(ヘブル8章、旧い契約と新しい契約)

投稿日:2019年11月27日 更新日:

 

1.破棄された旧い契約

 

・信徒たちはキリスト教徒になったばかりに異端として迫害され、もとのユダヤ教に戻ろうとしている。その彼らに著者は、「ユダヤ教の祭司制度はモーセと結ばれた契約を基にしているが、この旧い契約は破棄され、新しい契約が立てられた。新しい契約の祭司こそ、キリストなのだ」と説く。

-ヘブル8:1-2「今述べている事の要点は、私たちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所、真の幕屋で、仕えておられるという事です」。

・モーセは、神から指示を受け、幕屋=神殿を作った。地上の幕屋は天の幕屋の模型であり、地上の幕屋に仕えるのがレビ人である。「ユダヤ教に戻るとは天の幕屋を捨てて、地上の模造品の幕屋に戻ることなのだ」と著者は言う。

-ヘブル8:3-6「すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています・・・もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう。この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとした時に、お告げを受けた通りです。神は『見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ』と言われたのです。しかし、今、私たちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです」。

・モーセとの間に結ばれた旧い契約は破棄され、新しい契約が結ばれた。

-ヘブル8:7-8「もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています『見よ、私がイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来ると、主は言われる』」。

 

2.新しい契約に生きる

 

・新しい契約が述べられているのはエレミヤ31章だ。バビロニヤ軍の侵攻(前587年)により、エルサレムは破壊され、王家は断絶し、神殿も破壊された。その時、エレミヤは「新しい契約の約束」を聞いた。へブル書はエレミヤ書31章を引用してそれを説明する。

-ヘブル8:8「事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。『見よ、私がイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来ると、主は言われる』」(エレミヤ31:31)。

・その契約は、旧い契約の更新ではありえない。人間は契約を守ることが出来ないから、契約を更新しても、また人間の側から破るであろう。救済は神の恩恵以外にはありえない。

-ヘブル8:9「『それは、私が彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らは私の契約に忠実でなかったので、私も彼らを顧みなかった』と、主は言われる」(エレミヤ31:32)

・新しい契約においては、「神が語りかけ人が聞く」と言うこと自体が廃止され、神の意志は直接人の心に置かれる。人間はその心の中に神の意志を担い、神の意志のみを欲するようになる。

-ヘブル8:10「『それらの日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、主は言われる。『すなわち、私の律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる』」(エレミヤ31:33)。

・イスラエルは「あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)と命じられたが、その結果がこの破滅である。もはや、人間の側からの救いはないゆえに、「神がその律法を人間の中におき、心に記す」(エレミヤ31:33)ことが起きる。

-ヘブル8:11-12「『彼らはそれぞれ自分の同胞に、それぞれ自分の兄弟に、「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで、彼らはすべて、私を知るようになり、私は、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである』」(エレミヤ31:34)。

・ここに新しい契約が結ばれた。新しい契約が結ばれたことは、最初の契約は破棄されたことを示す。

-ヘブル8:13「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます」。

・パウロは、この新しい契約がキリストの十字架死により成就したと理解した。それが新約(新しい契約)である。新約においては、神の霊をいただいた信徒たちが神の手紙となって福音を伝える者になる。「文字(書かれた戒め)は人を殺すが、霊(新しくされた信徒)は人を生かす」とパウロは語る。

-第二コリント3:3-6「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。私たちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。私たちの資格は神から与えられたものです。神は私たちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」。

・私たちはこの契約の更新を、主の晩餐式をいただく毎に行う。そこに聖餐(晩餐)の意味がある。

-第一コリント11:23-25「私があなた方に伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き『これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で杯も同じようにして『この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい』と言われました」。

 

  1. キリスト教とユダヤ教の相違と一致

 

3.1キリスト教から見たユダヤ教(ウィキペディアより)

・キリスト教はユダヤ教を成就し継承するものだと、キリスト教徒は考えている。教義、一神教を始めとする多くの実践、メシア信仰、祈りや聖書朗読に見られる崇拝の独特の様式などが、ユダヤ教に通ずると考えている。 ユダヤ教は罪を償うために血の贖いを必要としたものの、第二神殿の破壊後にそれを放棄したと、キリスト教徒は考えている。 ほとんどのキリスト教徒は、中継ぎとしてモーセの律法も必要ではあったが、キリストの磔刑以降は一般にも儀礼上にも、心からの支持は新しい契約が取って代わったと考えている。だから彼らはユダヤ教の聖典を「旧約聖書」と呼ぶ。

 

3.2ユダヤ教から見たキリスト教(ウィキペディアより)

・ユダヤ人の多くはイエスを、大勢いる自称メシア(偽メシア)のうちの1人にすぎないと考える。 モーセの律法に定められた預言者の試練を成し遂げた者はまだ誰もいない。 他の者は、イエスは非ユダヤ人と働いたラビでありメシア的な存在ではあったものの、本人より後の時代の追従者によってゆがめられたのだと見なしている。 イエスとその支持者の名においてユダヤ人の心身に対し数多くの暴力が振るわれ、多くの教会の活動でいまだ福音主義がはびこっているため、多くのユダヤ人はイエスについて討論することにも不快を感じ、彼をイェシュと呼び価値ある人物としては扱わない。

・ 「ユダヤ人はイエスについてどう考えるか」という質問に対する答えとして、哲学者ミルトン・スタインバーグは、ユダヤ人にとって、イエスはラビ以上の何ものでもないと主張している。 「ほんの数点でイエスは伝統を踏み外した」とスタインバーグは結論付けている。 「そのほんの数点で、彼は失敗したのだとユダヤ人は考えている」。

・ユダヤ教では、神はどの人間にも犠牲を要求することはないと信じている。 この点は、アケダー(焼き尽くす捧げもの)、すなわちイサクの燔祭の物語についてのユダヤの伝統で強調されている。 ユダヤ人の解釈では、トーラーのアケダーは、神がアブラハムの信仰と意志に試練を与えた物語であり、イサクは実際には生贄として捧げられる予定ではなかったという。 このようにユダヤ教は、誰かが、他の誰かの罪のために死ねる、あるいは死ななくてはならないという概念を拒絶する。 ユダヤ教は、神の意志に従って、この世でどう生きて人生を神聖なものとするべきか、学ぶという現実性に焦点を当てており、来世への希望については重視していない。 ユダヤ教はキリスト教と違って、天国と同様、来世で罰を受けるという場所(ゲヘナ、地獄)の概念を信じてもいないし、それを焦点にもしていない。

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