2019年12月4日祈祷会(ヘブル9章、キリストの贖罪)

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1.地上の大祭司とキリスト

 

・ヘブル書は古い契約と新しい契約を対比することを通して、新しい契約の意味を強調する。古い契約での礼拝は祭司による動物を捧げる贖罪儀式であった。そこでは朝夕、動物の犠牲が捧げられた。

-ヘブル9:1-3「最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました」。

・聖所の奥には至聖所があり、そこには大祭司のみが年に一度入る。大祭司は7月10日の贖罪日に至聖所に入り、自分と家族の罪のためにまず雄牛を屠り、その血を捧げる。民のためには雄山羊を屠り、その血を捧げる。

-出エジプト30:10「アロンは年に一度、この香をたく祭壇の四隅の角に贖罪の献げ物の血を塗って、罪の贖いの儀式を行う。代々にわたって、年に一度、その所で罪の贖いの儀式を行う」。

・人は報復のために他者の血を流す。加害者の血をもって被害者たちの贖いとする。典型は9.11テロの報復のために流されたアフガンとイラクの人々の血だ。2001年9月11日に無差別テロがアメリカを襲い、NY貿易センタービルが破壊され、2973人が殺された。アメリカ大統領G.ブッシュは「テロとの戦い」を宣言し、アメリカはアフガニスタンを攻撃し、イラクに攻め込んだ。10年後、ニューズウィーク誌は過去を振り返る記事を掲載した

-ニューズウィーク・2011.6.29から「9・11の同時多発テロで亡くなった人数は2973人だった。テロ報復のための戦争で死者は総計22万人になった。米軍戦死者6000人は9・11の同時多発テロで亡くなった2973人を大幅に超えている。米軍帰還兵は、PTSDに悩み、就職難に面している。アメリカ国民の税金186兆円が戦地で、悪戯に消耗されてしまった。アメリカよ、一体全体あなた方は、何をしていたのだろう」。

・人は報復のために他者の血を求める。それを防ぐために、旧約においては動物の犠牲の血を祭壇に捧げて、「贖いの儀式」を行う。

-レビ記17:11「生き物の命は血の中にある。私が血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである」。

・聖所と至聖所は幕でさえぎられ、神の臨在する至聖所には、人は近づけない。その中で犠牲が捧げられても、人は神に近づくことは出来ない。そこでは不十分な犠牲が捧げられるだけであり、魂の救済はなされなかった。

-ヘブル9:7-9「第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物と生贄が献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです」。

・この聖所と至聖所をさえぎる幕がイエスの十字架死の時に切って落とされたとマタイは記す。新しい生贄イエスが神に受け入れられ、新しい契約が締結されたと新約記者は理解した。

-マタイ27:50-52「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」。

・キリストはこのようにして、新しい契約を、自らが生贄となることで結ばれたとヘブル書は語る。

-ヘブル9:12「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」。

 

2.罪を購う唯一の生贄

 

・遺言は遺言者が死ぬことにより、法的効力を持つ。新しい契約はイエスの死によって有効なものとなった。

-ヘブル9:15-17「最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。遺言の場合には、遺言者が死んだという証明が必要です。遺言は人が死んで初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません」。

・大祭司は天上の聖所の写しに過ぎない地上の聖所で、犠牲を捧げる。しかし、今やキリストは私たちの罪の犠牲として死に、神の御前に立って下さった。

-ヘブル9:23-24「このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさった生贄によって、清められねばなりません。なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今や私たちのために神の御前に現れてくださったからです」。

・キリストはただ一度きりその犠牲を捧げられ、罪の購いを永遠になされた。だからもう生贄は必要がない。

-ヘブル9:25-26「キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません・・・世の終わりにただ一度、御自身を生贄として献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」。

・キリストは今も生きておられる。キリストは一度死なれたが、今は天の玉座におられる。私たちの人生は一度きりで、死ねば神の前に出て審きを受ける。その審きの時に、キリストは私たちのそばに立って、弁護してくださるとへブル書は語る。

-ヘブル9:27-28「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」。

・人は二度死ぬ。一度目は肉体の死だ。二度目は存在の死だ。かつてその人がいたことを社会は忘れる。聖書はその存在の死が復活により、永遠の命に変わると告白する。

-ヨハネ11:25-26「イエスは言われた。『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」。

 

3.贖罪信仰をどう理解するか

 

・贖罪信仰は初代教会のイエスの十字架死に対する信仰告白であった。松見俊は「『犠牲のシステム』とキリスト教的贖罪論」(西南学院大学神学部『神学論集』第70巻第1号)の中で語る。

「ヘブライ5~10章には大祭司キリスト論が展開されています。『ただ一度だけ』が繰り返され、「彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。この御旨に基づきただ一度イエス・キリストの身体がささげられたことによって、私たちは清められたのである」(10:10)と言われ、キリストの自己犠牲によって、旧約聖書の犠牲供犠そのものが廃止されたというのです。岩波訳も4節以下の表題を「キリストの犠牲によって廃止された『外的犠牲』」としています」。

・松見は続ける「犠牲供犠は人間の複数の罪への贖罪を念頭においたものですが、この一度限りの出来事によって、律法違反から結果する心の痛み、あるいは、律法違反としての他者から断罪されることから自由にされる生き方が目指されているのではないでしょうか。死をもって死から解放されるという論理からすれば、確かに「犠牲」の論理の危うさが残るものの、イエスの自己犠牲によってラディカルに犠牲制度が廃棄されたとみなして良いでしょう」。

・パウロはその贖罪理解を繰り返し手紙の中で語る。

-第一コリント15:3「私が最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、私自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、私たちの罪のために(uJpe+r tw'n aJmaptiw'n hJnw'n)死んだこと・・・」。

-ローマ8:31-39「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか」。

・贖罪信仰は、初代教会がイエスの十字架死を、「私たちの罪のためにキリストは死なれた」と理解した処から来る。それを展開させたのがヘブル書である。しかしヘブル書の贖罪理解には、それが後のキリスト教の暴力性を生んだ「犠牲の論理」であったとの批判が多い。

-ルネ・ジラール「暴力と聖なるもの」から「供犠とは生贄によって共同体内の内的緊張、怨恨、敵対関係といった相互間の攻撃傾向を吸収する集団的転移作用のことである・・・新約聖書のヘブライ人の手紙以降のキリスト教は、父なる神がそのような供犠として、自分に一番親しい子なる神の血を求める『供犠的キリスト教』であり、その特徴は人間の暴力ではなく神の暴力である。イエスの受難を贖罪のための供犠とみなしてきたことこそが歴史的にみたキリスト教の迫害者的性格のものであり続けてきた原因である」。

・「パウロは、イエスの十字架上の死を、あらゆる種類の供犠に逆らった完全に非供犠的な死であり、挫折と見えたイエスの刑死の中に隠された神の勝利を認めた。こうして、イエスとパウロにおいては、『神の暴力』、すなわち供犠の要求が終結している。ところが、そのイエスとパウロはやがてヘブライ人の手紙を筆頭とする『供犠的キリスト教』によって覆い隠されてしまった」。

・松見俊は語る。

「贖罪・和解の信仰はキリスト教教理の核心部分であり、安易に廃棄すべきではない。伝統的な贖罪・和解論が持つ神話的世界観は非神話化されるべきであるが,神話的表象で表現されてきたリアリティそのもの(罪の根源性と人間による罪の克服不能性,普遍的広がり,そして,それを打ち破る救い)は失われるべきではない。イエス・キリストが命がけで私たちを愛して下さり,私たちの「ために」死んで下さったということが契機・動機づけにならないと,イエス・キリストに従い、他者と「共に」生きる倫理的行為が成立しないのではないだろうか。この関係理解を保持することが重要である」。

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