2019年11月6日祈祷会(ヘブル6章、成熟した信仰者になることの意味)

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1.成熟した信仰者になれ

 

・ヘブル書は迫害の中にあるユダヤ人キリスト者たちにあてた手紙と言われている。弟子たちの伝道により、多くのユダヤ教徒がキリスト教徒に改宗したが、キリスト教は異端とされ、家族・親族から絶縁され、地域共同体からも追われた。彼らは強くあらねばならない。しかしまだ弱い。著者は手紙の受信人を叱る。「バプテスマを受けて何年もたち、教師になってしかるべきなのにまだ幼子のレベルに留まっている。いまだに固い食物の代わりに乳を必要としている」。

-ヘブル5:12-14「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです」。

・洗礼志願者に初歩の教理が教えられるが、あなたがたはまだその段階にいる。あなた方は光を見たのにまだ闇を歩いている。この世の人と同じように歩いている。今のあなた方に必要なものは成熟した信仰だ。

-ヘブル6:1-3「だから私たちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。神がお許しになるなら、そうすることにしましょう」。

・教えの初歩から離れて成熟した信仰を持たなければ、あなたは恵みの座から脱落する。敵はあなたがたを迫害しようとしている。あなたが迫害に負けて信仰を捨てれば背教者になる。背教者は滅びるのだ。

-ヘブル6:4-6「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」。

・土地は実を結ぶために開墾され、手入れされる。もし実を結ばなければ呪われる。あなた方は実を結ばず切り倒されるべきなのに、キリストの執り成しにより猶予されている存在なのだ。

-ヘブル6:7-8「土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、焼かれてしまいます」。

・愛する人たち、あなた方はいただいた永遠の命を棄てるな。恵みから落ちるな。あなた方の困窮は信仰に対する迫害から生じている。神はそのことを知っておられる。だから猶予されておられるのだ。

-ヘブル6:9-11「愛する人たち、こんなふうに話してはいても、私たちはあなた方について、もっと良い事、救いにかかわる事があると確信しています。神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕える事によって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるような事はありません」。

 

2.信仰の先達を見つめよ

 

・最後まで希望を持て。信仰と忍耐によって約束のものをいただいた信仰の先達たちを見つめて欲しい。

-ヘブル6:11-12「最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです」。

・アブラハムのことを考えなさい。アブラハムに最初の約束がなされたのは彼が75歳の時だった。彼はそれから25年間も約束を信じて待った。彼に子が与えられたのは100歳の時であったではないか。

-ヘブル6:13-15「神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、『私は必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす』と言われました。こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです」。

・その待ち望んだ子を捧げよとアブラハムは命じられた。彼は神がなぜそのような命令をされるのか、わからないままに信じて捧げた。愛の神は最善を与えて下さると信頼したからだ。

-ヘブル11:17-19「信仰によって、アブラハムは、試練を受けた時、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です」。

・神は約束され、約束を保証するために誓いを立てられている。この約束と誓いの二つの確かさの中に私たちはいる。

-ヘブル6:17-18「神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来た私たちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです」。この事柄に関して、神が偽ることはありえません」。

・この希望の確かさは荒海を旅する船の錨だ。古代教会では殉教者の遺体を収める棺に錨を描いた。死を超えて神の約束は確かだとのしるしである。大祭司キリストが為されたことはその錨を与える行為なのだ。

-ヘブル6:19-20「私たちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。イエスは、私たちのために先駆者としてそこへ入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです」。

 

3.へブル6章と私たち(固い食物と乳)

 

・古代教会において、キリスト教会に参加することは、マジョリティーを離れ、マイノリティーになることであった。その結果、国や地域や家族からも排斥された。成熟した信仰なしには、迫害を耐えることはできなかった。イエスが迫害されたのだから、自分たちが迫害されるのは当然だとの決意が必要だった。その迫害から立ち直る力は、「固い食物」を食べることから生まれる。

-ヘブル12:11-13「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい」。

・戦前の日本のキリスト教会もヘブル書と同じような教会迫害の時代を経験した。しかし、人々は教会を離れなかった。

-同志社大学・原誠「戦時下の教会の伝道-教勢と入信者」から「戦時下の1942年、日本基督教団全教会の受洗者は年5,929名だった。国家による宗教統制が激しさを増し、ホーリネスや救世軍などに対する弾圧などが起こり、国家がキリスト教を敵国宗教であるとして疑いの目で見ていた時だ。その時に6千名近い洗礼者があった。戦後、信教の自由が保証され、自由に教会に行くことが出来るようになった1998 年の受洗者は1900名と半分以下になっている」。

・人々が教会を離れ始めたのは、戦後、自由に信仰できる時代になってからであった。その理由について石田学は語る。

-石田学「日本における宣教的共同体の形成」から「第二次大戦後、キリスト教を信じることが建前上は自由になり、社会的な抵抗が少なくなった時、自分がキリスト教徒であることを絶えず自覚させられる要因が取り除かれた。ほとんど信仰を意識せずとも一週間を過ごすことが出来るようになった。こうして物理的にも精神的にも、教会生活は日曜日だけの選択肢になってしまった」。

・石田は続ける「教会は今やキリスト教徒の生活の中心ではなく、矮小化された多くの生活の一つにすぎなくなった。教会は信仰共同体ではなく、任意共同体になった。人々は教派・教会を移動するようになった。その時、求められるのは『居心地の良い教会』である。教会の正統性が、教理ではなく、体験的正統性になってきた。聖霊の力を体験し、信仰の喜びや感謝を実感できるかによって、人々は教会を選択する。そのため讃美と交わりを中核に据えた福音派教会が選ばれ、伝統的な説教中心主義教会は衰退している」。でもそれで良いのだろうか。人の交わりを中核にするとは、「固いものを食べずに乳を飲み続ける」教会形成ではないだろうか。教会は、「受難したキリスト」という固い岩の上に立てられる必要がある。

-マタイ7:24-27「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」。

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