江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年10月30日祈祷会(ヘブル書5章、大祭司キリスト)

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1.大祭司としてキリストは死なれた

 

・イスラエルでは大祭司が民のためにとりなしの犠牲を捧げ、罪の赦しを祈る。大祭司の要件は、「神から任命された」こと、「民の弱さを思い知る」ことの二つであった。大祭司は人間から出て人間のために行為する。

―ヘブル5:1-2「大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物や生贄を献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです」。

・大祭司は毎年7月10日の「贖いの日」に至聖所に入り、まず自分と家族のために生贄を捧げ、それから民のために生贄を捧げた。自らを清めた後、民の罪をとりなすことが求められた。

―レビ記16:11-16「アロンは自分の贖罪の献げ物のための雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行うため、自分の贖罪の献げ物の雄牛を屠る・・・次に、民の贖罪の献げ物のための雄山羊を屠り、その血を垂れ幕の奥に携え、さきの雄牛の血の場合と同じように、贖いの座の上と、前方に振りまく。こうして彼は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、至聖所のために贖いの儀式を行う」。

・キリストはバプテスマの時に、神から召しを受け、大祭司となられた(マルコ1:9-11参照)。

―ヘブル5:4-5「この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、『あなたは私の子、私は今日、あなたを産んだ』と言われた方が、それをお与えになったのです」。

・またキリストは十字架の前夜、血の汗を流して祈られた。そのことを通して自分の罪を清められた。

―ヘブル5:7「キリストは、肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」。

・そして自らが犠牲となって、民のために血を流された。私たちの罪のために死んでくださったのだ。自らも苦しまれたゆえに、御子は大祭司としての職務をまっとうされた。

―ヘブル7:27-28「この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日生贄を献げる必要はありません。というのは、この生贄はただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです」。

 

2.この人に従う

 

・あなた方はキリストに従うことを決意し、バプテスマを受けて長い信仰生活を送ってきた。あなた方は教師として他の人を教え諭すべきなのに、まだ自分の救いや苦難を問題にして入る。それでは乳飲み子と同じではないか。

―ヘブル5:11-12「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです」。

・固い食べ物を食べる、成熟したクリスチャンになれというのである。未熟なクリスチャンは自分の救いを求める。成熟したクリスチャンは他者の救いをとりなす。もう自分は救われているからだ。

―ヘブル5:13-14「乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです」。

・成熟したクリスチャンの祈りがゲッセマネにある。キリストは十字架の杯を取り除く事を父に求められたが、最後には「御心がなりますように」と祈られた(新生讃美歌73番「良き力に我かこまれ」参照)。

―ルカ22:42-44「『父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください』。すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」。

・いつまでも自我にとらわれるな、自我から解放されよ、成熟したクリスチャンとなれ。

―第一コリント3:1-3「兄弟たち、私はあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。私はあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間に妬みや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」。

 

3.へブル書の贖罪論と近代における批判

 

・ヘブル書はキリストの十字架死を、旧約聖書の大祭司の行う贖罪祭儀になぞらえて説明する。旧約=ユダヤ教の礼拝の中心は犠牲の動物を捧げる贖罪儀式であり、自分の罪を犠牲の動物に転嫁することによって赦しを求める。

-ヘブル9:1-3「最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました」。

・幕屋はシナイ山でモーセに作成を命じられた礼拝の場所、後の神殿の原型となった。幕屋には第一の幕屋=聖所と、第二の幕屋=至聖所があり、その間には大きな垂れ幕があった。通常の礼拝は聖所で行われ、その奥にある至聖所(神の臨在する場所)には、大祭司だけが年に一度の贖罪の日に入り、屠った雄牛と雄山羊の血を祭壇に捧げる。聖所と至聖所は垂れ幕でさえぎられ、人は神の臨在する至聖所には近づけない構造になっていた。

-ヘブル9:7-8「第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます」。

・至聖所への道が垂れ幕にふさがれているため、人が神と直接に交わることは不可能だった。福音書記者マタイはイエスが十字架で死なれた時に、聖所と至聖所を隔てていた垂れ幕が裂かれたと語る。聖所と至聖所をさえぎる幕が裂かれたことにより、私たちが神と交わる道が開けたとマタイは記述している。

-マタイ27:50-51「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け(た)」。

・垂れ幕が裂かれた意味を、ヘブル書著者は「私たちにはもう犠牲を捧げる必要はない、何故ならばキリストはご自身の血を永遠の犠牲として捧げてくださったからだ」と理解する。

-ヘブル9:11-12「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」。

・贖罪そのものは、初代教会がイエスの十字架死を、「私たちの罪のためにキリストは死なれた」と理解した処から来る。それが初代教会の信仰であった。

-大貫隆「イエスという経験」から「イエスは十字架上に彼自身にとって意味不明の謎の刑死を遂げた・・・弟子たちは彼らの故郷であるガリラヤに逃げ帰った、あるいはエルサレムのどこかに隠れていた・・・その弟子たちが逃亡先で殺害されたはずのイエスに「出会った」、あるいは殺害されたはずのイエスが彼らに「現れた」・・・それは幻視体験、あるいは覚醒体験、目覚めの体験であった」 。

「ペテロを筆頭として、イエス処刑後に残された者たちは・・・必死でイエスの残酷な刑死の意味を問い続けていたに違いない。その導きの糸になり得たのは・・・聖書であった。聖書の光を照らされて、今や謎と見えたイエスの刑死が、実は神の永遠の救済計画の中に初めから含まれ、聖書で予言されていた出来事として了解し直されるのである・・・彼らはイザヤ53章、ホセア6章、ヨナ2章等を、「イエスの刑死をあらかじめ指し示していた預言」として読み直し、・・・イエスの死を贖罪死として受け取り直した」。

・しかしこのヘブル書の贖罪理解には、それが後のキリスト教の暴力性を生んだ「犠牲の論理」であったとの批判が多い。

-ルネ・ジラール「暴力と聖なるもの」から「供犠とは生贄によって共同体内の内的緊張、怨恨、敵対関係といった相互間の攻撃傾向を吸収する集団的転移作用のことである・・・新約聖書のヘブライ人の手紙以降のキリスト教は、父なる神がそのような供犠として、自分に一番親しい子なる神の血を求める『供犠的キリスト教』であり、その特徴は人間の暴力ではなく神の暴力である。イエスの受難を贖罪のための供犠とみなしてきたこと、それこそが歴史的にみたキリスト教の迫害者的性格のものであり続けてきた原因である・・・パウロは、イエスの十字架上の死を、あらゆる種類の供犠に逆らった完全に非供犠的な死であり、挫折と見えたイエスの刑死の中に隠された神の勝利を認めた。こうして、イエスとパウロにおいては、『神の暴力』、すなわち供犠の要求が終結している。ところが、そのイエスとパウロはやがてヘブライ人の手紙を筆頭とする『供犠的キリスト教』によって覆い隠されてしまった」。

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