1.人の裁き
・パウロは、分派に分かれて争い合うコリント教会の人々に語る。「アポロとは何者か。パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者」ではないかと。「パウロは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神」であるのに、教会の現場では、「誰につくか」で争いが起きる。人々は指導者のカリスマ(賜物)を他の指導者と比較し、評価する。実際にコリント教会の人々は伝道者としてのパウロをアポロと比較し、パウロを批判したようだ。
−2コリント10:10「私のことを、『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです』」。
・パウロは語る「伝道者は教会に仕える僕であるが、同時に神の奥義の管理者である」。伝道者の最大目標は教会の人々の賞賛を得ることではなく、神の福音を宣べ伝えることである。
−1コリント4:1「人は私たちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです」。
・キリストに仕える者=ヒューペレテース、ヒュポ=下に、エレテース=漕手の、ガレー船の一番下で櫓をこぐ奴隷を示す言葉だ。伝道者は奴隷船の漕ぎ手のようにキリストという主人に仕える者だとパウロは語る。また、パウロが用いる管理者=オイコノスは、家の管理を任されている奴隷のことだ。私たちはキリストから福音宣教を任されている奴隷だ、奴隷だから主人のために働くと彼は語る。
−1コリント4:2-3「この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。私にとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。私は、自分で自分を裁くことすらしません」。
・「あなた方から、どんな批判を受けても問題」ではなく、「問題はキリストのために働いているか」、その一点にかかっていると彼は言う。「神に仕える者は神にのみ責任を負う」。裁かれるのは主であり、人ではない。伝道者を裁く方は神であるのに、「あなたがたは先走って裁いている」。
−1コリント4:4-5「自分には何もやましいところはないが、それで私が義とされているわけではありません。私を裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」。
・牧師が「キリストの教会」の管理者(オイコノモス)であるように、信徒もまたオイコノモス(キリストの僕)なのだ。主人が僕を選ぶべきであるのに、あなた方は僕であるのに、「私はパウロに」、「私はアポロに」と主人を選ぼうとしている。今日的な言葉に置き換えると、「会衆が牧師を選び、雇用する」のではなく、「神が牧師を立て、その業を委託される」。仮に牧師がその委託に応えない場合、神がその牧師を廃されるだろう。会衆がしてはいけない。
−エゼキエル34:8-12「私の群れは略奪にさらされ、私の群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、私の牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている・・・見よ、私は自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする・・・私は雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す」。
2.裁く人に対してどう対応するのか
・パウロはコリントの人々への批判を続ける。「あなた方は仕えるのではなく、仕えられることを求めている。王様であるかのように高ぶっている」、それで良いのかと。
−1コリント4:7-8「あなたをほかの者たちよりも優れた者としたのは、だれです。あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、私たちを抜きにして、勝手に王様になっています」。
・さらに、あなた方は、「私たち伝道者を刑場に引かれていく死刑囚のように嘲笑している」と彼は言う。ローマの競技場では、さまざまな見世物の最後に死刑囚が引き出され、死ぬまで猛獣や剣士と戦わせられる。「伝道者は、命をかけてキリストの福音を伝えている。その私たちを裁き、嘲るあなたがたは何者なのだ」とパウロは反論する。
−1コリント4:9「考えてみると、神は私たち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。私たちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです」。
・私はキリストによって、愚かな者、弱い者とされたことを喜ぶ。キリスト御自身がそうなられたからだ。
−1コリント4:10-13「私たちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。私たちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、私たちは侮辱されています。今の今まで私たちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、私たちは世の屑、すべてのものの滓とされています」。
3.パウロは何故この手紙を書いているのか
・14節から語調が変わる。パウロは言う「あなた方を生んだのは私なのだ」と。
−1コリント4:14-15「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいて、私があなたがたをもうけたのです」。
・そしてパウロはここで有名な言葉を語る「私に倣う者になりなさい」と。
−1コリント4:16-17「そこで、あなたがたに勧めます。私に倣う者になりなさい。テモテをそちらに遣わしたのは、このことのためです。彼は、私の愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会で私が教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれた私の生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。」
・これはパウロの生活態度や信仰に倣いなさいという意味ではない。パウロは手紙の後半でもこのことを繰り返す。「本当にキリストに属したいのであれば、私を見よ、私のように生きよ」とパウロは迫る。キリスト者になるとは、この世的に成功し、良い暮らしをすることではなく、愚か者とされ、弱い者と罵られ、侮辱される者となることだ。キリストはそうなさったではないかと彼は訴える。
−1コリント11:1「私がキリストに倣う者であるように、あなた方もこの私に倣う者となりなさい」。
・パウロはコリントの人々に対して、あなた方は「満足し」、「富み」、「強く」、「尊敬されている」と皮肉を持って語った。それに対して自分を、「侮辱され」、「飢え」、「渇き」、「着るものもなく」、「虐待され」、「身を寄せるところもない」と語る(4:10-11)。どちらの生き方がキリスト者として求められる生き方なのか。キリストはどう教えられたかを思い起こせとパウロは語る。
-ルカ6:24-26「富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である」。
・何故富むこと、満腹すること、笑うこと、人に褒められることが不幸なのか。それは悪の世にあって富み、満足し、笑う人は現実の不条理を見ようとしないからだ。しかしその人が見ようとしなくとも不条理はあり、やがてその人を支配する。
−いじめを見て見ぬ振りをすれば、自分がいじめの対象になることをとりあえずは回避できる。しかし、いじめという悪はそこに残り、多くの人がそのために涙を流している。
−出生前診断を受け、陽性であれば9割の人がその子を中絶する。障害のある子を生む危険性を除去するために、妊娠を「なかったことにしよう」とする。それは障害者を育てる人への冒涜ではないか。
−原発事故は今でも10万人以上の人々を避難民としているが、この事実に目をつむって、原発事故など「なかった」ことにすれば、原発再稼働により、割安の電気で快適な生活が出来るかもしれない。
・キリスト者はこのような不条理に目をつむることは出来ない。何故ならば主イエスはこのような不条理に抗議され、そのために十字架で死なれたからだ。パウロはキリストのために苦しむことさえ恵みと語る。
−ピリピ1:29「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」
・聖書の教えは十字架を出発点にしている。主が十字架を担われたのであれば、主に従う私たちが十字架を見て見ぬふりは出来ない。見て見ぬふりをしなければ、そこには苦難や困難が生じる。いじめられたり、障害のある子を育てたり、高い電気料金を支払う必要も出てくる。その苦難や困難を引き受けていくのがキリスト者の生き方ではないだろうか。
−ボンフェッファー「教会は、他者のために存在する時にだけ教会である・・・教会は、あらゆる職業の人に、キリストと共に生きる生活とは何であり、他者のために存在するということが何を意味するかを、告げなければいけない」(D. ボンフェッファー「獄中書簡」39-440p)。