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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2017年12月20日祈祷会(ローマの信徒への手紙6:15−23、罪の奴隷から義の奴隷へ)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.義の奴隷

・パウロは6章で二つの生き方を私たちに提示する。一つは「自分の命を自分のために用いる」生き方であり、パウロはこれを「体を罪に支配させる」生き方だと語る。もう一つの生き方は「命を自分以上の者に捧げる」生き方であり、パウロはそれを「義のために自己を捧げる」生き方だと語る。
−ローマ6:12-14「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」
・人は完全に独立して生きることは出来ない。人間は罪か義か、この世か神か、いずれかに依存する生活を送らざるを得ない存在である。「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」(マタイ6:21)からだ。
−ローマ6:15-16 「では、どうなのか。私たちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」。
・パウロは、「奴隷の喩え」を用いて信仰の奥義を説明する。
−ローマ6:17-18「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕える者となりました。」
・パウロは罪を制御できないまま、自我の欲望に翻弄されている者を「罪の奴隷」といい、自我の欲望を捨て、神の意に従う者を「義の奴隷」という。
−ローマ6:19「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体の汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。」
・パウロは、人間が持つ果てしない肉の欲望を制御できないさまを「肉の弱さ」と言い、その結果としての状態を「五体の汚れ」、「不法の奴隷」と言う。その結果は死である。
−ローマ6:20-21「あなたがたは、罪の奴隷であった時は、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたは今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。」
・パウロは「罪の奴隷であった時は、恥ずかしい実りしかなかったではないか。それに対して義の奴隷になることのすばらしさ」を力説する。
−ローマ6:22「あなたがたは、今では罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは永遠の命です。」
・罪の報酬は死であり、義の報酬は永遠の命である。パウロのいう「死」は「肉体の死」ではない。肉体の死であれば、誰にでも訪れる。パウロのいう死は「魂の死」である。パウロは、「罪に打ち勝ち、死に打ち勝ち、イエス・キリストによる永遠の生命を得なさい」と励ましている。
−ローマ6:23「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです。」
・子を中絶する人は「自分の子だから自分の自由にする」といい、酒や放蕩に身を崩す人は、「自分の人生だから自分で決める」と勧告を拒絶する。自由がその人を幸せにしないのは明らかであり、むしろ「自分以上のものに」、例えば仕事や子育てや運動に打ち込んだ時、人は生きがいを感じる。しかし仕事や子供や運動は相対的なものであり、目的が達せられない場合は挫折に終わり、徒労感に襲われる。人ではなく神に身を捧げない限り、本当の満たしは来ない。神は失望した私たちの叫びを聞いてくださるからだ。
-イザヤ49:4「私は思った、私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である。主の御目に私は重んじられている。私の神こそ、私の力。」

2.義の奴隷となるとは「聖なる生き方」をすることだ

・パウロは私たちに「聖なる生活を送りなさい」と勧める。聖化、清められることである。私たちはバプテスマを受けた時、この世に対して死ぬ。
−ガラテヤ6:14「この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。」
・「聖なる生活」を志すとは、現実には難しい選択を迫られる。勤務先が武器や弾薬を作る会社であったら信徒は会社を辞めるべきだろうか。会社が廃棄物を不法投棄し、そのために環境破壊が生じたら、信徒はどうすべきだろうか。現実の生の中で、キリストにある新しい命を生きるとは何かを私たちは模索する。
−ヨハネ16:33「これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」
・信仰に生きる建設会社の社員は談合を拒否し、食品会社の社員は食品偽装を内部告発するようになる。その時、「世は彼を憎む」。信仰者の教師は、成績の良い学生を一流大学に送り込むことよりも、不登校や落ちこぼれの学生の世話に奔走する。その時、学校の偏差値を上げることを至上命題とする学校側の評価は下がる。信仰を生活の中で実践しようとすると多くの障害にぶつかる。しかし、バプテスマを受けて、聖化は始まっている。肉の体は日々衰え、霊の体は日々成長している。
−?コリント4:16「だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます」。

3. 罪の赦しと共に、清めは始まる

・罪が赦された後、私たちが依然と同じ状態のままでいてはいけない。罪の赦しは聖化、は清めを伴わなければいけない。ヨハネ8章「姦淫の女の物語」は聖化の意味を教える。イエスのもとに、人々が姦淫の現場で捕えた女を連れてきて訊ねた「こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法の中で命じています」(ヨハネ8:5)。イエスは答えられた「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が石を投げなさい」(同8:7)。すると、「年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってしまい、イエス一人と、真ん中にいた女が残った」(同8:9)。イエスは身を起して女に言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(8:11)。ここに罪の赦しと「聖化」が鮮やかに語られている。「私もあなたを罪に定めない」、ここに赦しがある。「これからは、もう罪を犯してはならない」、これが聖化である。
・聖化された人間はもう自分のためには生きない。それが「新生」(新しい生き方)だ。新生とは今まで自分中心で生きていた人生が神中心の、具体的には「隣人と共に生きる」あり方に変えられて行くことだ。そのためには一度古い自分に死ななければいけない。ヨハネはイエスの言葉を紹介する「一粒の麦が地に落ちて死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」と。
−ヨハネ12:24-25「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」
・「一粒の麦が死ぬ」とはどういうことか、麦は自らが死ぬことによって、地の中で壊され、形を無くして行く。そのことによって、種から芽が生え、育ち、やがて多くの実を結ぶ。自分の姿を残す、蒔かれることを拒否すれば、今は死なないが、やがて死に、後には何も残さない。イエスが十字架で死ぬことによって、そこから多くの命が生まれてきた。私たちもその命をいただいた一人だ。だから私たちも、自分の形をなくして、イエスのために世に仕えていこうと決意する。パウロはそれを求めている。

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