2018年3月28日祈祷会(ローマの信徒への手紙13:1−14、キリスト者と国家)
1.権威に従えとパウロは説く
・ローマ13章は、「キリスト者の社会生活はいかにあるべきか」が主題である。パウロは冒頭、上に立つ権威、王や行政機関は、「神によって立てられた」ものであるから、従うべきであると説く。「背く者は神に背くことになり、裁かれることになる」とさえ語る。
−ローマ13:1−2「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、かえって自分の身に裁きを招くでしょう。」
・支配者、権力者は、悪を行う者にとっては恐ろしい存在だが、善を行う者にとってはそうではない。なぜなら善を行う者は、世の権威者の保護を受けるからだ。
−ローマ13:3「実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。」
・権威者が神から任された役割は、「民が善を行なえばこれを褒め、悪を行えばこれを処罰する」ことだ。彼らはそのために剣を身に着けている。
−ローマ13:4「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。」
・人は権威者の怒りを免れるためばかりではなく、自分の良心に恥じないためにも、権威者に従わねばならない。権威者に税を納めるのもそのためだ。
−ローマ13:5−6「だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにもこれに従うべきです。あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。」
・上にある権威だけでなく、社会にあるすべての権威に対する義務を果たしなさい。貢や税はもちろん、納めるべきものは納め、恐れなければならぬ存在は恐れ、尊敬すべき存在は尊敬しなさい。
−ローマ13:7「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」
・パウロは上に立つ権威に従うよう教えている。しかし、パウロがこの手紙を書いた当時の地中海世界の権威はローマ帝国が握っており、ローマ帝国においては皇帝が民の生殺与奪権を握っていた。その権力は属領の民にまで及び、皇帝の支配力はキリスト教徒に対しても例外ではなかった。信教の自由もその支配下にあり、不安定な世の中であった。そのような時にパウロはなぜ支配者に対する民の従順を説いたのだろうか。パウロはここで、ローマ帝国とその秩序に従い、「納めるべき税は納め、果たすべき義務は果たしなさい」と語っている。初代教会の人々は、パウロの使信を受け入れた。紀元64年、ネロによるキリスト教迫害が始まった時、人々はパウロの言葉に従い、抵抗することなく、殉教して行った。
・しかし、国家が神の委託に従わず、獣となった時、私たちはどうすべきか。国家が命令するのであれば、不法な戦争でも従うべきなのだろうか。やがてローマ帝国は皇帝礼拝を強要し、従わない者は弾圧するようになった。その時も従うべきなのか、人々は悩んだ。ヨハネ黙示録時代の人々は神の審判を求めた。
-ヨハネ黙示録19:20-21「獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたのであった。獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。残りの者どもは、馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた」。
2.隣人愛の教え
・パウロは8節以降で愛について語る「互いに愛し合いなさい。愛に報いを求めてはならない」と語る。
−ローマ13:8「互いに愛しあうことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」
・どんなにたくさんの掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という愛の教えに勝るものはない。「愛こそが律法を全うする」とパウロは語る。
−ローマ13:9−10「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするのです。」
・パウロは「互いに愛しあうことのほかは、だれに対しても借りがあってはならない」と語る。世に対するキリスト者の考え方の基本は愛である。「愛は隣人に悪を行なわない」。だから「悪に対して善で対抗せよ」。キング牧師の生き方もそうであった。彼は黒人差別を行う白人を敵ではなく、隣人と考えた。
−キング説教集「汝の敵を愛せ」から「イエスは汝の敵を愛せよと言われたが、どのようにして私たちは敵を愛することが出来るようになるのか。イエスは敵を好きになれとは言われなかった。我々の子供たちを脅かし、我々の家に爆弾を投げてくるような人をどうして好きになることが出来よう。しかし好きになれなくても私たちは敵を愛そう。何故ならば、敵を憎んでもそこには何の前進も生まれない。憎しみは憎しみを生むだけだ。また、憎しみは相手を傷つけると同時に、憎む自分をも傷つけてしまう悪だ。自分たちのためにも憎しみを捨てよう。愛は贖罪の力を持つ。愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力なのだ」。
3.終末の光を求めて
・パウロは語る「救いは近づいている。終末は近い。だから、緊張して、朝を迎えようではないか」。終末信仰に生きる時、何が大事で、何がそうでないかが明らかになる。世の在り方もまた相対化される。
−ローマ13:11「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、私たちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」
・夜が更け、朝が近づく日の出の直前に、一番闇が濃くなる。今がまさにそのような時である。生きて行く希望が持てないような、今のような時代こそ、希望の朝が近づいていることを信じよう。
−ローマ13:12「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けましょう」
・パウロは終末と再臨の時を踏まえて、キリスト者の果たすべき責任について語る。「私たちは闇の業である肉の欲を止め、主イエス・キリストの光りを身に着け、品位をもって明るい昼間を歩こう」と。
−ローマ13:13−14「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして肉に心を用いてはなりません。」
・パウロは自らの生きている時代を、「夜の闇の時代」に譬えている。「何の希望も持てない闇の時代の中にあっても、希望を捨ててはいけない」とパウロは教える。夜が更け、闇が深まるほど、朝が近い。ヨッヘン・クレッパーが作詞した讃美歌560番「夜は更けゆき」もそのような信仰を示す。彼は1937年にこの歌を書いたが、当時のドイツではナチスの暴力的支配が強まり、ユダヤ人迫害が始まっていた。クレッパーはハンニというユダヤ人女性と結婚しており、そのために、帝国著作家協会から除名される。この頃から、クレッパーは讃美歌の作詞に心を傾け、苦難の中で神に委ねる信仰を歌うようになり、その代表的な歌がこの讃美歌560番「夜は更けゆき」だ。
−賛美歌560番1節「夜は更けゆき闇は迫り、行く手は見えず暗きに泣く、されど友らよ朝は近し、ひかる明星望みて待たん」。
・4年後、ナチスはクレッパーにユダヤ人妻を離婚せよと迫るが彼は拒否する。妻と子は強制収容所に送られることになり、その前夜、クレッパーと家族は自宅で自死した。1942年12月10日の夜だった。クレッパーは最後の夜の日記にこう書きこんだ。「午後、国家安全局と交渉。私たちはこれから死ぬ ああ、このことも神のみむねの中にある。私たちは、今夜、一緒に死ぬ。この最後の時、私たちのために闘って下さるキリストの祝福する像が私たちの頭上に立っている。その眼差しの中で私たちの生は終わるのだ」。クレッパーは絶望して死んだのではなく、妻と子の尊厳を守るために、死を選び取っていった。
−賛美歌560番4節「悩み苦しみ襲い来とも、星は輝き朝は来る、神に向かいて顔を上げよ、救いの光汝を照らさん」。
・キリスト者は社会の中で生きる。その時、キリスト者は国家に対してどのようにあるべきか、また国家が戦争に参加するように求めた時、どうすべきかが問われる場合が出てくる。現在のアメリカでは多くのキリスト者がアフガニスタンやイラクで兵士として徴兵され、死んで行く。しかしキリスト者は負けない。
−グランド・ゼロからの祈り「復讐を求める合唱の中で、『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』と促されたイエスの御言葉に聞くことが出来ますように。キリストは全ての人のために贖いとして御自身を捧げられました。キリストはアフガニスタンの子供や女や男のために死なれました。神はアフガニスタンの人々が空爆で死ぬことを望んでおられません。国は間違っています。神様、為政者のこの悪を善に変えて下さい」(「グランド・ゼロからの祈り」、ジェームズ・マグロー、日本キリスト教団出版局)。