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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2017年6月7日祈祷会(マルコによる福音書9:30−49、二度目の受難予告)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.再び自分の死と復活を預言する

・ピリポ・カイザリアからイエスはエルサレムに向かわれる。エルサレムでは受難が待ち受けている。イエスは弟子たちに二度目の受難予告をされた。マルコは「人の子は人々の手に渡される」と書く。神が受難を導かれるという意味合いを持つ。
−マルコ9:30-31「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは、弟子たちに、『人の子は、人々に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する』と言っておられたからである」。
・マルコには三度の受難予告の記事があるが、共通の形がある。それはイエスが、「自分は死ぬためにエルサレムに向かう」と弟子たちに告げられても、弟子たちはその意味を理解できなかったことだ。彼らはそれを考えまいとした。
−マルコ9:32「弟子たちは、この言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。」
・受難予告には、「殺されてから三日後に彼は復活する」という復活予告が続くが、この予告は、教団の信仰告白であろう。生前のイエスは、受難は予期されておられたが、復活は考えておられなかったと思える。

2.一番偉い者はだれか

・旅の間、弟子たちは「誰が一番偉いのか」と議論していた。弟子たちはイエスがエルサレムで王になられると思い込んでおり、彼らの関心はその時に誰が一番偉い地位につくか、だった。
−マルコ9:33−34「一行はカファルナウムへ来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、『何を議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論しあっていたからである。」
・事の一部始終を聞かれたイエスは座り直し、十二人を呼び寄せ、「神の国では仕える者こそ偉いのだ。まだわからないのか」と教えられ、彼らの心得違いを諭された。
−マルコ9:35「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい。』」
・イエスは傍らにいた幼子の手をとり、弟子たちの真ん中に立たせ、「この幼子のように小さい者を受け入れるようにしなさい」と諭された。
−マルコ9:36−37「そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ抱き上げて言われた。『私の名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。』」
・マルコは弟子たちの無理解を隠さない。しかしマタイはこの箇所を「天国では誰が一番偉いのか」という話に変えて弟子たちの名誉を守る。マルコでは「小さい者を受け入れるように」という教えが語られるが、マタイでは「小さき者になりなさい」と微妙に表現が変えられている。
-マタイ18:1-3「その時、弟子たちがイエスのところに来て『いったい誰が、天の国で一番偉いのでしょうか』と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない』」。
・この世の偉さの物差しは能力だ。「何が出来るか、どのような能力を持っているか」が価値判断基準になる。しかし神の物差しでは、「小さな者にいかに仕えるか」で偉さが決まるとイエスは言われた。この世のリーダーは人の上に立ち、人を指導する。だからリーダーには能力が求められる。神の国の、あるいは教会のリーダーシップは人の下に立ち、人に仕えることが求められる。そこで必要とされるのは能力ではなく、愛だ。人間の偉大さは、その優れた能力でどれだけ多くの人や物を支配できるかにあるのではなく、どれだけ自分を小さく低くして、人に仕え、社会に役立つことができるかにある。
−?コリント13:2-3「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ私に何の益もない」。

3.逆らわない者は味方

・弟子の一人ヨハネが名誉挽回にために、「自分たちに同調しない者を除名した」と告げる。ヨハネは雷の子というあだ名をつけられていた(3:17)、性格が激しかったのだろう。だから「イエスの名」を無断で使って悪霊追放(癒し)の業を行っている人を見て怒り、「私たちの主イエスの名を使うのであれば、私たちの許可を受けなさい」、そして「もし私たちに従わないのであれば、二度と主イエスの名を使わないでいただきたい」と言った。ヨハネはイエスがほめてくれると思って報告するが、イエスから怒られる。マルコは、教会の閉鎖性をイエスの言葉を借りて批判している。
−マルコ9:38−39「ヨハネがイエスに言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました。』イエスは言われた。『やめさせてはならない。私の名を使って奇跡を行い、すぐその後で、私の悪口は言えまい。』」
・教会が内側に閉じた時、教会はカルト的になる。自分たちと異なる者は敵になるからだ。40節からの言葉は初代教会の言葉であろう(イエスは自らをキリストとは呼ばれなかった)。「巡回伝道者を大事にしなさい」とマルコは教会に勧告している。信仰や立場の異なる者を受け入れない風潮が初代教会においてもあった。
−マルコ9:40−41「私たちに逆らわない者は、私たちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

4.人をつまずかせるな

・イエスは「信仰を妨げる者、つまずきを与える者」には厳しい態度を示された。彼らは、「石臼を首に懸けられて海に投げ込まれた方が良い」とさえ語られる。
−マルコ9:42「私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて海に投げ込まれてしまう方がはるかに良い。」
・「手や足が罪を犯したら切り捨てよ」とイエスは教えられる。
−マルコ9:43-45「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方が良い。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方が良い。」
・人間の罪は「目で見る」ことから始まる。「目がつまずかせるならそれを抉り出せ」とイエスは語られる。
−マルコ9:47−48「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方が良い。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」
・マルコ9:49以下はマタイ5:13「地の塩」の原型である。「火で塩味をつけられる」、イエスが十字架で死なれたように、イエスに従う者も殉教を覚悟せよとマルコは語る。
―マルコ9:49−50「人は皆、火で塩味をつけられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味をつけるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、たがいに平和に過ごしなさい。」
・この言葉は激しすぎるとして、マタイは穏やかに書き直す。マタイの文脈では、「弟子であるあなた方は世の塩、世を腐敗から守る礎になるのだ、だから塩気をなくすな、弟子であり続けよ」となる。しかし、もともとのイエスの言葉は、マルコのように、「塩を最後の審判、裁き」と意味づけていたと思われる。
−マタイ5:13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」。
・最初の受難告知(8章)ではペテロが叱られた。今回の受難告知(9章)ではヨハネが叱られ、三度目の受難告知ではヤコブとヨハネが叱られる。
−マルコ10:35-38「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになる時、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』イエスは言われた。『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか。』」
・マルコは弟子たちの無理解を繰り返す。人は復活のイエスに出会わない限り、イエスの弟子になることは出来ない。水のバプテスマに続く「霊のバプテスマ」が不可欠なのではないだろうか。
-マルコ1:8「私は水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。

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