1.敵を愛しなさい
・レビ19:17は「敵を憎んではならない」と教えているが、イエスはさらに進んで「敵を愛せよ」と教えている。この教えは「隣人愛」を越えた究極の教えである。
−ルカ6:27−33「『しかし、私の言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬を向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい・・・人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分に良くしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている』」。
・イエスは愛の教えの基本は、神の愛である。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とイエスは言われた。
−ルカ6:34−36「『返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。』」
・マルテイン・ルーサー・キングは、1963年に「汝の敵を愛せよ」という説教を行った。当時、キングはアトランタ・エベニーザ教会の牧師で、黒人差別撤廃運動の指導者として投獄されたり、教会に爆弾が投げ込まれたり、子供たちがリンチにあったりしていた。そのような中でなされた説教だ。
-新教出版社・汝の敵を愛せよから「イエスは汝の敵を愛せよと言われたが、どのようにして私たちは敵を愛することが出来るようになるのか。イエスは敵を好きになれとは言われなかった。我々の子供たちを脅かし、我々の家に爆弾を投げてくるような人をどうして好きになることが出来よう。しかし、好きになれなくても私たちは敵を愛そう。何故ならば、敵を憎んでもそこには何の前進も生まれない・・・自分たちのためにも憎しみを捨てよう。愛は贖罪の力を持つ。愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力なのだ」。
2.人を裁くな
・「人を裁くな」の教えは、他者を裁き続ける人間の欠点を鋭く衝いている。イエスの戒めを聞いて、初めて自分の身勝手に気づく人がどこにでもいるはずだ。
−ルカ6:37−38「『人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。』」
・教師は自分が達した段階以上は教えられない。盲人が他の盲人の道案内をすることはできない。
−ルカ6:39-40「イエスはまた、たとえを話された。『盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかしだれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる』」。
・イエスは独善的裁きを行う者を偽善者と呼ぶ。人間は人の欠点は見えるが、自分の欠点は見えない。他人を批判しながら、自分の誤りに気付こうともしない人々に、イエスは「おが屑と丸太の教え」を説く。
-ルカ6:41-42「あなたは兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太に気付かないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ。まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」
3.実によって木を知る
・イエスは外見ではなく、「実を見て木を知れ」と教えておられる。良い実は生命を養う食べ物になるが、悪い実は生命を損なう。
−ルカ6:43−45「『悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、結ぶ実にとって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は心からあふれ出ることを語るのである。』」
・「人の口は心からあふれ出ることを語る」、そして人は他人の悪口が好きであり、そのことが多くの人の心を引き裂く。私たちは自分の舌を制御できない存在である。
−ヤコブ3:8-10「舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私たちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、このようなことがあってはなりません」。
・良い実のならない木は切り倒される。しかし、この世で良い実をならせることは難しい。その時、ルカは「イエスが忍耐して待っておられる」と語る。私たちは神から刑の執行を猶予されている存在である。
−ルカ13:6-9「イエスは次のたとえを話された。『ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
4.家と土台
・イスラエル南部の荒野では、河床は雨季には水が溢れるが、乾季は干上がり平らになっている。平らだから家を建てやすいが、雨季には水没するから、家を建ててはいけない。
−ルカ6:46−49「『私を「主よ、主よ」と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。私のもとに来て、私の言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。』」
・風雨で家が倒れるか倒れないかは、土台の良し悪しで決まる。信と行が一致する人は、岩の上に家を建てた賢い人と言えるが、信と行が矛盾する人は、砂の上に家を建てた愚かな人だと言われている。イエスの言葉を信じて行う人は、人生の風雨を耐え抜ける。形だけ信じてもそのような信仰は崩れる。
−マタイ7:21「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけでない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである」。
・クリスチャンの精神科医・赤星進氏は「信仰には自我の業としての信仰と神の業としての信仰がある」と言う。「自我の業としての信仰」とは、自分のために神をあがめていく信仰だ。この病を癒してほしい、この苦しみを取り除いてほしいとして、信じる。しかし、この信仰に留まっている時はやがて信仰を失う。何故ならば、そのような信仰は、要求が受け入れられない時には崩れる。もう一つの信仰のあり方、「神の業としての信仰」とは、赤子が母親に対してどこまでも信頼するのに似た、神に対する信頼だ。生まれたばかりの赤子は一人では生きていくことができない。ただ一方的に母親の愛を受け、その中で安心して生きていく。「信仰の成長とは自我の業としての信仰が神の業としての信仰になることだ」と彼は語る。神の業として信仰の見本がマタイ25章にある。
−マタイ25:35-40「お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ。』 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。』」