江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年5月25日祈祷会(ルカによる福音書7:1-23、イエスが行われた癒しのわざ)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.百人隊長の僕を癒す

・ルカ7章には二つの癒しの物語が記されている。一つはローマ軍百人隊長の僕の癒しである。百人隊長の部下の癒しは、イエスの宣教の業が民族の壁を越え、異邦人にまで及んでいた典型的な例である。
−ルカ7:1−5「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カフアルナウムへ入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来て下さるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。『あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。私たちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。』」
・百人隊長はイエスに面識がなく、長老を通してイエスの徳に触れていた。彼はユダヤ人が異教徒の家へ入るのをためらう習慣を尊重するほど、礼義正しい人であった。
−ルカ7:6−8「そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は使いをやって言わせた。『主よ、御足労には及びません。私はあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、私の方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、私の僕をいやしてください。私も権威の下に置かれている者ですが、私の下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、その通りにします。』」
・百人隊長の謙虚な信仰をイエスが称賛した時、隊長の部下の病は癒されていた。
−ルカ7:9−10「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、私はこれほどの信仰を見たことがない。』使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。」
・現実の世界には、どのように祈っても病が癒されず、願いがかなわない時もある。内村鑑三の娘ルツは17歳の時に重い病気に罹り、彼は必死に祈るが、ルツは死に、内村の信仰は根底より揺るぐ。しかしやがて彼は新しい信仰に包まれる
−内村鑑三・ヤイロの娘より「私の娘の場合においても、私の祈祷が聞かれなかったのではない。聞かれつつあるのである。終わりの日において、イエスがすべて彼を信ずる者をよみがえらしたもう時に、彼は私の娘に向かっても、『タリタ・クミ(娘よ、起きなさい)』と言いたもう・・・わが娘は癒さるるも、癒されざるも、最後の癒し、すなわち救いを信じ、感謝してその日を待たねばならない。われら、愛する者の死に面してこの信仰をいだくははなはだ難くある。されども神は我らの信なきを憐れみたもう。『主よ、信なきを助けたまえ』との祈りに応えたもう」(内村鑑三聖書注解全集十五巻ガリラヤの道三十六)。

2.やもめの息子を生き返らせる

・二番目のしるしはやもめの息子のよみがえりだ。イエスは一人息子の死を悲しむやもめを憐れまれた。−ルカ7:11−13「それから間もなく、イエスはカインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」
・イエスはやもめの息子を死から蘇らせた。死人の蘇りを、目の当たりにした人々は、イエスの力に驚嘆した。
−ルカ7:14―17「そして、棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい。』と言われた。すると死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った。イエスについてのこの話しは、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。」
・やもめの息子の蘇生は、一人息子を失ったやもめの姿が、イエスの目に憐れに映ったからだった。イエスが死人を蘇らせた奇跡は、ヤイロの娘の蘇り(マルコ5:21−43)と、ラザロの蘇り(ヨハネ11:1−44)と、このやもめの息子の三例だけである。しかし、現実の世界では、私たちがこのような奇跡を望んでもかなわない。その時にどうすべきなのか。願いがかなわず、愛する者を天に送った一人の女性の素晴らしい詩“天に一人を増しぬ”がある。
-セラ・ストック作、植村正久訳“天に一人を増しぬ”「家には一人を減じたり、楽しき団欒は破れたり、愛する顔いつもの席に見えぬぞ悲しき。さはれ天に一人を増しぬ。清められ、救はれ、全うせられし者一人を・・・家には一人を減じたり、門を入るにも死別の哀れにたえず、内に入れば空しき席を見るも涙なり。さはれ、はるか彼方に、我らの行くを待ちつつ、天に一人を増しぬ・・・地には一人を減じたり、その苦痛、悲哀、労働を分つべき一人を減じたり。旅人の日毎の十字架を担うべき一人を減じたり。さはれ、贖われし霊の冠をいただくべき者一人を天の家に増しぬ・・・主イエスよ 天の家庭に君と共に坐すべき席を、我らすべてにも与えたまえ」

3.洗礼者ヨハネとイエス

・バプテスマのヨハネはヘロデにより幽閉されていたが、獄中でイエスの言動を聞き、この人は本当にメシアなのかを疑い、弟子たちをイエスのもとに派遣した。
−ルカ7:18−20「ヨハネの弟子がこれらすべてのことについてヨハネに知らせた。そこで、ヨハネは二人の弟子を呼んで、主のもとに送り、こう言わせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。』二人はイエスのもとへ来て言った。『私たちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか。」とお尋ねするようにとのことです。』」
・ヨハネは、イエスが神の子として、最後の裁きを行うことを期待していた。しかし、現実のイエスは下層の民の間で地味な宣教活動を続けているに過ぎない。期待外れにしか見えないイエスに、ヨハネは疑問を感じた。ヨハネには真のイエスが理解できず、目に見えるイエスの姿につまずいた。だから、イエスは「私につまずかない人は幸いである」と答えたのである。
−ルカ7:21−23「その時、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。それで、二人にこうお答えになられた。『行って見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである。』」
・ヨハネはイエスにつまずいた。裁きの時に罪人は滅ぼされるべきなのに、イエスは罪人の救いのために尽力されている。「来るべき神の国は、裁きではなく、救いである」ことをヨハネは理解できなかった。後の人々もキリストにつまずいた。キリストが来ても何も変わらないからだ。生活はよくならないし、ローマは相変わらずユダヤを支配し、世の不正や悪はまん延している。本当にこの人はメシアなのか。このつまずきは私たちにもある。信じて洗礼を受けても、病気が治るわけではないし、苦しい生活が楽になるわけでもない。私たちも心のどこかで疑っている。この人は本当にメシア=キリストなのだろうか。
・ゲルト・タイセンは「イエス運動の社会学」という研究で、イエスが来て何が変わったのかを、社会学的に分析して語った。
−ゲルト・タイセン、イエス運動の社会学から「社会は変わらなかった。多くの者はイエスが期待したようなメシアでないことがわかると、イエスから離れて行った。しかし、少数の者はイエスを受入れ、悔い改めた。彼らの全生活が根本から変えられていった。イエスをキリストと信じることによって、『キリストにある愚者』が起こされた。このキリストにある愚者は、その後の歴史の中で、繰り返し、繰り返し現れ、彼らを通してイエスの福音が伝えられていった」
・キリストにある愚者は、世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分には何が出来るのか、どうすれば、キリストから与えられた恵みに応えることが出来るのかを考える人たちだ。この人たちによって福音が担われ、私たちにも伝承された。私たちも、人生のいろいろの場面で、弟子たちと同じ体験を通して、イエスに出会った。もう、元の生活には戻れない。今度は私たちが、苦しんでいる人、悩んでいる人を招く番だ。今度は私たちが「キリストにある愚者」になる番だ。

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