1.弟子たちの裏切り予告
・イエスは最後の晩餐の席上で、弟子たちの足を洗われた。弟子たちが、自分たちの席順を争って、誰もお互いの足を洗おうとしなかったからだ。しかし、この行為がユダにはつまずきになった。ユダが求めていたのはイスラエルを救う解放者であり、弟子の足を洗う方ではなかった。イエスはユダの心を知って、心騒がせ、叫ばれた「この中に私を裏切る者がいる」。弟子たちは疑心暗鬼となり、晩餐の席に緊張が走る。
−ヨハネ13:21‐24「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている。』弟子たちは誰のことを言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に,誰について言っておられるのかと尋ねるように合図した。」
・「この中に私を裏切る者がいる」というイエスの言葉に、弟子たちはお互いに顔を見合わせる。マルコによれば『まさか私ではないでしょう』と言い合っている(マルコ14:19)。弟子たちはみな裏切りの可能性を内に持っていた。イエスは言われた「私がパンを浸して与える者がその人だ」。そして、ユダにパンを与えられた。それはユダに悔い改めの機会を与えるためであった。しかし、ユダはその場から出て行った。
―ヨハネ13:22‐27「その弟子が胸もとに寄りかかったまま、『主よ、それは誰のことですか』と言うと、イエスは、『私がパン切れを浸して与えるのがその人だ』と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのユダに与えた。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』と言われた。」
・教会には多くの人が来て、また去っていく。何故、一度は信じた人が去っていくのか。自分の願いをあくまで求める人は失望して去り、自分の願いではなく、神が与えられたものを受ける人は残る。ユダは一人晩餐の席を抜け出る。弟子たちはまだユダの裏切りに気づいていない。
−ヨハネ13:28‐30「座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたか分からなかった。ある者はユダが金入れを預かっていたので、『祭に必要なものを買いなさい』とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのかと思っていた。ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」
2.互いに愛し合いなさい
・ユダが去った後、イエスは最後の時が来たことを悟られ、「今や、人の子は栄光を受ける」と言われる。ヨハネ福音書の「栄光」は「十字架」を指す。
−ヨハネ13:31‐32「さて、ユダが出て行くとイエスは言われた。『今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって栄光をお与えになる。しかも、すぐお与えになる。』」
・イエスは弟子たちに別離を告げ、新しい掟を示される。「互いに愛し合いなさい」という掟だ。
−ヨハネ13:33‐35「子たちよ、いましばらく、私はあなたがたと共にいる。あなたがたは私を捜すだろう。『私が行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人に言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」。
・イエスは新しい愛の掟を教えられた。イエスが教える以前の愛は、人情の愛、奪う愛、であった。イエスは父なる神から啓示された無償の愛(与える愛)を教えられた。マザーテレサが1984年に日本に来た時、広島の原爆資料館を訪れ、そこに色紙を残した。次のような言葉が書かれていた。今も展示されている。
−マザーテレサの色紙「神が私たち一人一人を愛されたように、私たちも互いに愛し合いましょう、そうすれば、広島に多大の苦痛をもたらした恐るべき罪悪が、二度と起こらないでしょう」。
・マザーはヨハネ13:34「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」を引用しながら、私たちは相手もまた神から愛されている存在であることを知らないから、憎み合い、殺し合うと語る。神は私の敵をも、イスカリオテのユダさえも愛しておられる。そのことを知る時、私たちは人を愛することが出来るし、戦争を止めることが出来る、マザーはそのように訴えている。
-1982年長崎の原爆資料館でのマザーの言葉「原爆は、悪魔の行為です。核をつくった人、使った人は、どういう結果をもたらすか、資料館を見てほしい」。
3.ペトロの離反を予告する
・裏切り予告を受けて、ペトロは「命を捨ててもイエスに服従する」と誓う。しかしイエスは、「あなたも私を裏切るだろう」とペテロに言われる。
−ヨハネ13:36‐38「シモン・ペトロがイエスに言った。『主よ、どこへ行かれるのですか』イエスが答えられた。『私が行くところに、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。』ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』イエスは答えられた。『私のために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度私を知らないと言う。』」
・私たちは人の足を洗う、人のために自分を捨てることは出来ない。ペテロはイエスのために『命を捨てる』と言ったが、やがてイエスが預言されたようにイエスを裏切っていく。大祭司の屋敷でペトロはイエスを三度否認する。
−ヨハネ18:25-27「シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、『お前もあの男の弟子の一人ではないのか』と言うと、ペトロは打ち消して、『違う』と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。『園であの男と一緒にいるのを、私に見られたではないか。』 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた」。
・マルコによれば否認したペテロは自責の念にかられ、号泣する。
−マルコ14:72「鶏が再び鳴いた。ペトロは、『鶏が二度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう』とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした」。
・1960年代の教会で戦後派の若者たちが、大戦中軍部の抑圧に負けて背教した戦中派を痛烈に非難した。批判された戦中派の一人が独語した「彼らの非難は当然である。しかし、非難する若者たちも同じような状況になれば裏切るだろう」。人は自分の知恵と力で善を行い、人を愛することが出来ると思う。その傲慢が打ち砕かれ、自分では何も出来ないことを知る時、人は初めて神を求める。挫折こそ神の与えた恵みである。ペテロは裏切って、自分の弱さに泣くことにより、イエスの弟子になって行った。ペテロの涙は彼に与えられた洗礼の水ではなかったか。
−ルカ5:31-32「イエスはお答えになった。『医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。』」
・自分が赦された罪人であることを知る時、初めて私たちは愛し合うことが出来る。何故なら相手の罪を数えないからだ。その愛が教会を立てる。イエスは自分を三度否認したペテロに教会を委ねられた。
−ヨハネ21:17「三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、私を愛しているか。』ペトロは、イエスが三度目も、『私を愛しているか』と言われたので、悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。』イエスは言われた。『私の羊を飼いなさい』」。