1.御子の権威
・安息日の規定を破るばかりか、自らを「神の子」と称するイエスを、ユダヤ人は、「神を冒涜する者」として許せなかった。そのユダヤ人に対してイエスは、ご自分の証しをされた。「何が正しいかは、私たちが父の御心を行っているかどうかで判別される。安息日に病の人を放置するのと、その病を癒すことのどちらを父は望んでおられるとあなた方は思うのか」とイエスは問われる。以下はイエスの言葉というよりも、イエスを殺したユダヤ人共同体へのヨハネ教会からの反論であろう。
―ヨハネ5:19-20「そこで、イエスは彼らに言われた。『はっきり言っておく。子は、父の為さることを見なければ、自分からは何事も出来ない。父が為さることは何でも、子もその通りにする。父は子を愛して、御自分の為さることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。』」
・「これらのことよりも大きな業を子にお示しになる」、すなわち「ラザロの復活とイエス自身の復活をあなた方はこれから見るであろう」と語られる。
―ヨハネ5:21-23「『すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。』」
・イエスは「私を信じる者は永遠の命を得る。何故ならば私は神から派遣されているからだ」と教える。
―ヨハネ5:24-26「『はっきり言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにして下さったからである。』」
・「イエスの復活を通して、世の終わり、終末は既に来た。イエスこそ終末の裁き主である」とヨハネ教会は信仰告白する。
―ヨハネ5:27-30「『また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくるのだ。私は自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。私の裁きは正しい。私は自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。』」
・イエスは復活と裁きについて語られる。イエス時代のユダヤ人は、復活と裁きは世の終わりの時に起きると考えていた。しかし、ヨハネ福音書のイエスは「復活や審判はもう既に起こっている現在の事実である」と強調する。イエスは「私を信じ、神を信じる者は、世が終わりではなく、既に今、永遠の命を授かっている」と教えた。後のラザロ復活時のマルタとの問答がそれをより明瞭に示す。
−ヨハネ11:21-26「マルタはイエスに言った。『主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに』・・・イエスが、『あなたの兄弟は復活する』と言われると、マルタは、『終わりの日の復活の時に復活することは存じております』と言った。イエスは言われた。『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』
・私たちはこの地上を「生ける者の地」、あの世を「死せる者の地」と考えているが、真実は違う。全ての者が死ぬとしたら、この地上は「死につつある者の地」なのだ。しかし、イエスの復活を信じる時、死の先の生命が広がる。何故ならば、「復活の事実が、死を超えた世界があることを示している」。この時、地上が「生ける者の地」に変わる。イエスは命の源である神から遣わされた。私たちがそれを信じる時、死とは神のもとに帰る出来事になる(昇天、帰天)。神に帰るとは命に帰る事であり、死は全ての終わりではなくなる。そして死が克服された時、私たちの現在の生き方が変えられる。
2.イエスについての証し
・イエスは自らの権威の根拠、すなわち自分は神の子であることをユダヤ人に証しする。イエスは、「私の権威を証しする方は別にいる。その方の証しは信頼できる」と主張した。
−ヨハネ5:31-32「もし、私が自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。私について証しをなさる方は別におられる。そして、その方が私についてなさる証しは真実であることを、私は知っている。」
・その証人は洗礼者ヨハネであった。しかし、人々はヨハネを殺した。イエスは「ヨハネは死んだが、私が神の子であるとの証しは続く」と断言した。
−ヨハネ5:33-35「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。私は人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。」
・ヨハネの証しに勝る証しは、イエスが神の力により行う業である。その業(しるし)こそイエスが神に遣わされたことを証ししている。しかし、そのしるしを信じない者には、真理は理解できない。
−ヨハネ5:36-38「しかし、私にはヨハネの証しにまさる証がある。父が私に成し遂げるようにお与えになった業、つまり、私が行っている業そのものが、父が私をお遣わしになったことを証ししている。また、私をお遣わしなった父が、私について証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父の言葉をとどめていない。父がお遣わしなった者を、あなたたちは信じないからである。」
・ユダヤ人は「聖書を研究すれば真理を理解できる」と思い込んでいた。しかしイエスは「聖書は私について書いているのに、その私からから学ぼうとしないのは間違いである」と言われる。
−ヨハネ5:39-40「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書は私について証しするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るために私のところへ来ようとしない。」
・イエスが父の神の権威を帯びて来たのに、人々はイエスを受け入れない。彼らは偽キリストが権威を振りかざして来れば受け入れる。彼らのうちに神への愛がないからである。
−ヨハネ5:41-44「私は、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、私は知っている。私は父の名によって来たのに、あなたたちは私を受け入れない。ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉は受けるのに、唯一の神からの誉は求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。」
・ユダヤ人が「モ−セの言葉を信じ、律法を守って生きている」というなら、それは自らを欺いている。何故なら、「モ−セは私を証ししているのに、あなたがたは私を信じないからである」とイエスは言われる。
−ヨハネ5:45-47「私が父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモ−セなのだ。あなたたちは、モ−セを信じたのであれば、私をも信じたはずだ。モ−セは、私について書いているからである。しかし、モ−セの書いたことを信じないのであれば、どうして私が語ることが信じられようか。」
・ヨハネ福音書の第五章は、地上のイエスとその時代のユダヤ人との対話というよりは、「復活者イエス・キリストを神として告白する」ヨハネ教会と、「人間であるイエスを神とすることを冒涜とする」ユダヤ教会堂との激しい論争を描いている。当時ヨハネ教会はユダヤ人からの弾圧の中にあった(9:22「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」。
・ヨハネはこの論争を通して、復活者イエス・キリストを神とする自分たちのキリスト告白を、世界に向かって告知し、自分たちのキリスト告白を地上のイエスに重ねて語る。復活者イエス・キリストをどのような方として理解し言い表すか、新約聖書の内部でも、各文書のキリスト論は一様ではなく多様だ。その中でヨハネ福音書は、復活者イエス・キリストを明確に、「神として告白する」ことにおいて、他の文書に比べて際だっている。