江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年3月4日祈祷会(ヨハネ福音書5:1−18、ベトザタの池で病人を癒す)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.ベトザタの池で病人を癒す

・エルサレムの羊の門の近くにベトザタ(口語訳=ベテスダ、恵みの家)の泉があった。「癒しの泉」として知られ、病人が集まり、人々を収容するために建物が建てられていた。泉はラジウム鉱泉の間欠泉で、病気を治す効用があったのであろう。南仏・ルルドの泉にも病気を癒す力があると言われ、カトリックの聖地にされ、多くの病人が集まる。当時の人々は、天使が降りて来て水を動かす時を逃がさず池に入れば、病が癒されると信じていた。池の周囲の五つの回廊には、水の動くのを待つ病人がひしめいていた。
―ヨハネ5:1−4「その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムへ上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で『べトザタ』と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」。
・回廊で水が動くのを待っていた病人の中に、三十八年間病んでいる男がいた。彼は長い間「癒されたい」と願っていたが、祈りが聴かれず、絶望していた。その彼にイエスは「良くなりたいか」と尋ねた。男は池の水が動いた時、体が不自由なため動けず、癒される機会を何度も逃していると嘆いた。憐れんだイエスが立ち上がり、「床を担いで歩け」と彼に命じると、男は癒され、床を担いで歩いた。
―ヨハネ6:5−9「さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。病人は答えた。『主よ、水が動く時、私を水の中へ入れてくれる人がいないのです。私が行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。』イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』すると、その人はすぐ良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。」
・ここでイエスは三つのことを言われている。「起き上がりなさい」、この言葉はギリシャ語のエゲイレ、死からの復活を意味する言葉だ。希望をなくした男を起き上がらせるために、「甦れ」とイエスは言われた。「床を担げ」、もう床はいらない、それに頼るなと言われている。「歩きなさい」、目標をもってしっかりと生きよ、生まれ変わって新しい人生を始めよとイエスは言われた。
・このイエスの言葉は同時に、私たちへの言葉でもある。「あなたたちも希望をなくしているのではないか」、私たちのある者は、何十年も教会生活をしており、毎週、聖書を読み、説教を聴く。しかし、何も起こらない。生活はいつも通りだし、心に喜びがない。私たちもまた希望をなくしているのではないか。その私たちにイエスは問いかけられる「良くなりたいか」。希望を回復しなさいと。水野源三さんは41年寝たきりの人生を送ったが、いつも生かされていることを感謝していた。
-水野源三・短歌から「生きている、生かされている、歯が痛き、手足がかゆき、咳が苦しき」。
-同上「幾たびも、ありがとうと声出して、言いたしと思い、今日も暮れゆく」。

2.癒しと救い

・その場にパリサイ人が現れ、「安息日に床を担いで歩くのは律法違反だ」と男を咎めた。安息日には仕事をしてはいけないという規定があった。緊急の癒しは認められたが、いつ癒しても構わない病気の治癒は禁止されていた。そのため、パリサイ人たちは「なぜ床を担いで歩くのか」と男を問い詰めた。
―ヨハネ5:10−13「そこで、ユダヤ人たちは病気を癒していただいた人に言った。『今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。』しかし、その人は『私を癒してくださった方が、「床を担いで歩きなさい」と言われたのです。』と答えた。彼らは、『お前に「床を担いで歩きなさい」言ったのはだれだ。』と尋ねた。しかし、病気を癒していただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。」
・男は病を癒された。だがまだ救われていない。再び出会った男にイエスは言われる「あなたの上に神の憐れみが示されたではないか、それにもかかわらずあなたは神を認めようとしない。それは病で苦しむことよりももっと悪い結果をあなたにもたらす。だから悔改めなさい」と。しかし、男の関心はイエスではなく、世の支配者の方に向いていた。彼はパリサイ人の追求から逃れるために、イエスを訴える。
―ヨハネ5:14−16「その後、イエスは神殿の境内でこの人に出会って言われた。『あなたは良くなった。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。』この人は立ち去って、自分を癒やしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのためにユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。」
・律法違反を追及するパリサイ人にイエスは言われた「父が働いておられる時に子が休めようか」。イエスは神を「自分の父」と呼ばれた。人々はイエスが「神を冒涜した」と憤り、殺意を抱くようになった。
―ヨハネ5:17−18「イエスはお答えになった。『私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。』このためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」
・ここで問われているのは、「癒しと救いの違い」である。癒しは「神の憐れみのしるし」であり、この「しるし」から、信仰に至らなければ、そこに救いはない。ヨハネ5章の病人は、体は癒やされたが救われなかった。水野源三さんは「苦しまなかったら」という詩を書いた。彼は、体は癒されなかったが救われた。体が癒されないこともまた、救いとなりうることを源三さんは教える。
-水野源三詩集から「もしも私が苦しまなかったら 神様の愛を知らなかった。多くの人が苦しまなかったら 神様の愛は伝えられなかった。もしも主イエスが苦しまなかったら 神様の愛は現われなかった」。
・三浦綾子さんは若い時に結核、脊椎カリエスを経験し、晩年には癌とパーキンソン病になった。彼女はその経験を「神様は私に癌をも下さった」と語る。何が彼女にこの受容力を与えたのか。
-三浦綾子・泉への招待から「私は癌になった時、ティーリッヒの“神は癌をもつくられた”という言葉を読んだ。その時、文字どおり天から一閃の光芒が放たれたのを感じた。神を信じる者にとって、神は愛なのである。その愛なる神が癌をつくられたとしたら、その癌は人間にとって必ずしも悪いものとはいえないのではないか。“神の下さるものに悪いものはない”、私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていた」。

-

Copyright© 日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会 , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.