1.いちじくの木を呪う
・朝早くベタニヤから、エルサレムへ向かったイエスは、空腹を覚え、道沿いのいちじくの木の実を食べようとしたが、実は無かった。イエスがいちじくの木を呪われた時、木はたちまち枯れてしまった。
−マタイ21:18−19「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、『今から後、いつまでも、お前には実がならないように』と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった」。
・驚く弟子たちにイエスは信仰の可能性を教えた「信じて疑わないならいちじくの木を枯れさせたようなことができるばかりではなく、山をも動かせる」と言う。
−マタイ21:20-22「弟子たちはこれを見て驚き、『なぜ、たちまち枯れてしまったのですか』と言った。イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、「立ち上がって、海に飛び込め」と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。』」
・マタイはこの物語をイエスの神殿清めの直後に配置している。それはエルサレムの祭司長を代表とする祭司集団や、ファリサイ派を代表とする律法学者集団も、神の御心に沿った正しい信仰のあり方を示さなければ、このいちじくのように枯らされるというイエスの強い警告として物語る。エレミヤやホセアは「いちじく」を、イスラエルの象徴として描いている。エルサレム入りしたイエスが神殿で見たのは、枯れかけたユダヤ教の姿であった。形ばかりの神殿礼拝、形ばかりの律法順守であった。イエスは、古代の預言者が行ったように、「象徴的な行動を通して民に訴える」預言として、このいちじくの木を枯らす行為を行われたとマタイは報告している。
2.権威についての問答
・エルサレム入り後にイエスの行われた神殿清め、病人のいやし、子供たちのイエス賛美など、どれをとっても、ユダヤ教指導者たちにとっては苦々しく、不快極まるものだった。しかし、下手にイエスに手出しをすれば、民衆の反発を招くことになりかねなかった。しかし、いつまでも手をこまねいておれない。彼らはイエスに近づき、二つの質問をした。一つは、イエスはどのような権威で宣教活動をしているのかで、もう一つはイエスにその権威を授けたのは誰かということであった。ユダヤ教のラビたちには、彼らを指導した師や、尊敬する先輩ラビの名をあげ、自分を権威づける慣わしがあった。イエスが何の権威で教え、活動しているかは、ユダヤ教指導者には関心ある問題だった。
−マタイ21:23「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『何の権威でこのようなことをしているのか。誰がその権威を与えたのか。』」
・神殿内には、巡礼者に守らせなければならぬ細かな規則が多くあり、イエスはその規則を破った。祭司長たちの「誰がその権威を与えたのか」という問いには、神殿の管理者である我々以外に、誰もその権威を与えられるはずがないという自負と、その権威を無視したという怒りがこもっていた。人は何の権威に基いて事をなすのか。古代ユダヤで宗教活動をする場合、極めて重要なことだった。それはイエスもよく知るところであったが、イエスはあえて即答を避けた。イエスがどのように答えようとも、彼らが言いがかりをつけることが見え透いていた。イエスは彼らに別の質問をした。質問に対して質問をするのは、当時のラビが、人々を教育するのによく用いた手法であった。
−マタイ21:24-25「イエスはお答えになった。『では、私も一つ尋ねる。それに答えるなら、私も、何の、権威でこのようなことをするのか。あなたたちに言おう。ヨハネのバプテスマはどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。』」
・イエスは「ヨハネのバプテスマは、天からのものか、人からのものか」と彼らに問うた。権威には神からのものと、人からのものがある。ユダヤ教指導者たちは人からの権威しか視野に入っていなかったので、返答に窮し、「分からない」と答えるしかなかつた。民衆の反応が怖かったのである。イエスはそれ以上彼らを追及されなかった。
−マタイ21:26−27「彼らは論じあった。『「天からのものだ」と言えば、「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と我々に言うだろう。「人からのものだ」と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。』そこで、彼らはイエスに、『分からない』と答えた。すると、イエスも言われた。『それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい。』」
3.「二人の息子」の喩え
・イエスは沈黙した祭司長たちに、「二人の息子の喩え」を語られる。父親は初め兄にぶどう園に行くよう頼むが、兄は最初断るが、その後思い直して行く。弟は「行きます」と返事するが、結局は行かなかった。
−マタイ21:28−30「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園に行って働きなさい』と言った。兄は、『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。』
・ところが口語訳では兄と弟の立場が逆になっている。新共同訳とは異なる写本を底本にしたからである。話の筋からは口語訳の方が正しいとされている(兄が断ったので、弟の所に行った)。
−マタイ21:28-30(口語訳)「あなたがたはどう思うか。ある人に二人の子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働いてくれ』。すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた」。
・イエスはバプテスマのヨハネとの関わりで、この喩えを語られた。当時の宗教指導者は、ヨハネの説く「義の道」を受け入れながら行わず、徴税人や娼婦は「義の道」に背きながらも、ヨハネを受け入れている。
−マタイ21:31−32「『この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。』彼らが『兄の方です』と言うと、イエスは言われた。『はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。』」
・喩えの兄と弟は、どちらも父親にとって良い息子ではない。ぶどう園に行った弟の方が、いくらかましにみえるが、良い息子とは言えない。良い息子とは初めから、父親の頼みを聞き、それを実行する者のことである。イエスは、兄を「敬虔を語りながら、実生活は敬虔を欠いている祭司やパリサイ人」に喩え、弟は「敬虔を語らないが、実生活は敬虔な徴税人や娼婦たち」に喩えた。喩えが教えるのは、約束だけでは実行したことにはならず、口でいくら立派なことを言っても、立派な行いをしたことにはならない。行くと言って行かなかった兄は、外見は父親に対して丁寧であり、尊敬を込めて答えていたが、言葉だけの尊敬は空しい。同じように、言葉だけの信仰もまた空しい。ヤコブはイエスの喩えを受けて教会の人々に信仰の実行を語った。
-ヤコブ2:14-17「私の兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」。