1.「種を蒔く人」の喩え
・抽象的概念を具体的事例に変換して伝えるのが譬え話である。抽象的概念を理解するのは難しく、ましてイエスが教える相手が一般民衆であってみれば、なおさらである。抽象的な真理を伝えるには限界がある。イエスはその限界を熟知のうえで、譬えを用いて語った。たとえば、「善」を論じて理解を得られなくても、「善い人」、「善い行い」についての具体的事例を話せば、納得しやすい。神の真理をすべての人に理解できるよう教えること、それがイエスが譬えで語る目的であった。
−マタイ13:1−9「その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスは喩えを用いて多くのことを語られた。『種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけの土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のあるものは聞きなさい。』」
・種まきの譬えは4種類の人の心を譬えで語っている。種は神の言葉で、蒔かれる地は人の心である。固い土に蒔かれた種は、すぐ鳥に食べられてしまう。頑な心の人に福音の種を蒔いても根づかない。石だらけで土の少ない土地とは、誇りの高い人のことである。人の誇りは往々にして、神の言葉を受け入れることを妨げる壁となる。茨の土地の茨とは名誉や冨である。名誉や冨はそれ自体価値があっても、それを信奉している限り、名誉や冨が覆いかぶさり信仰の成長を妨げる。マタイ19:16−22の「金持ちの青年」はその典型である。また、イエスはこうも言っている。「だれも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、である。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)。
・良い土地に譬えられる人は、いつも学ぼうとし、神の言葉を喜んで聞こうと、いつも自らの心を開いている。そして、時間を惜しまない。もう知っているからとか、忙しいとか理由を並べて、神の言葉を聞くのを嫌がったりしない。常に神の言葉を聞こうとする姿勢を崩さない。急がず立ち止まって神の言葉を聞こうとする。神の言葉を学ぶ努力を常にし、そのための困難を厭わない。神の言葉が自分の人生に、どんな意味を持っているかを悟って受け入れる。聞いたことを、聞くだけにせず、実行しようとする。そういう人の信仰は良い実を結ぶ。百倍、六十倍、三十倍、人によりその倍数は異なるが、それぞれ実を結ぶ。
2.喩えを用いて話す理由
・イエスは群衆に譬えを用いて話したが、弟子達に理解されているようで理解されていなかったのである。彼らは譬えなど使わず、なぜ有りの儘話さないのか不思議に思っていたのである。その彼らの疑問に対し、イエスは二つの答えを与えた。一つは弟子達には神の奥義を知ることが許されているが、群衆には許されていないということ、もう一つは、彼らは見ても聞いても神の奥義を理解できないからであった。
−マタイ13:10−13「弟子たちはイエスに近寄って、『なぜ、あの人たちには喩えを用いてお話しになるのですか』と言った。イエスはお答えになった。『あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らには喩えを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。』」
・イエスはさらにイザヤの預言(イザヤ6:9−10)を引用し、群衆の宣教に対する無関心を非難した。彼らは見ても、聞いても理解せず、認めようともしない。そして悔い改めようとしない。だから私は彼らを救えないと、イエスは民衆を救えない無念さを弟子達の前で露わにしたうえで、弟子達を祝福した。イエスの弟子達は、旧約時代の預言者や義人たちが望んでいたメシヤを、眼前にしでいるからである。
−マタイ13:14−17「イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。私は彼らをいやさない。』しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたの見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたがったが、聞けなかったのである。」
3.「種を蒔く人」の喩えの説明
・18節から喩えの解釈が始まる。この部分はイエスの言葉ではなく、初代教会がイエスの喩えをどのように聞いたかが記されている(御国の言葉=福音はイエス以後の初代教会の伝道に用いられる言葉である)。マタイは教会に対して、「収穫は必ずある」と伝える。イエスの宣教はどうであったか。大勢の群衆がイエスの周りに押し寄せるが、彼らは病気が癒されると立ち去り、イエスを返り見ようともしない。ファリサイ人や律法学者らは、敵意をむき出しにしてイエスに迫る。弟子達の目には宣教の成果が見えてこない。気落ちしがちの弟子集団にこの「種まきの喩え」が示すのは、「収穫は必ずある」なのである。ある種は道端に落ち鳥に食べられ、ある種は土の薄い土地に落ちて育たず、ある種は茨に覆われ枯れてしまう。しかし、落胆してはいけない。実りのときは必ず来るし、刈り入れの日は必ず来る。農夫も蒔いた種が全部発芽するとは思ってはいない。農夫にとって、どんなに種の無駄があっても、種まきは止められないのだ。彼は、収穫は必ずあると信じているから、種まきに励める。実にこの「種まきの喩え」は福音の種を蒔く者、すなわち伝道者への励ましなのである。
−マタイ13:18−23「だから種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけのところに蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまづいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉は聞くが、世の思い煩いや冨の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」
4.「毒麦」の喩え
・24節から始まる毒麦の喩えも、イエス自身の言葉というよりも、初代教会の教会形成の難しさを語った言葉とされる。教会の中に悪がある。それをどのように理解するか、対処するか、という問題である。パレスチナの農夫にとって毒麦の見分けは難しかった。毒麦は「ほそむぎ」と呼ばれ、若苗のときは麦とそっくりだが、穂が出ると違いがはっきりする。しかし、その頃は麦と毒麦の根が絡み合い、毒麦を抜けば麦の根も抜いてしまうので、まず抜き取れない。毒麦の譬えの教訓は、良い麦を滅ぼそうとする毒麦のような力が人の世界には常にある、世には善と悪が拮抗しているから、善悪を見分け対処するのは難しい。教会の中においてもそうである。見かけは善さそうでも悪い人がいるし、逆に悪そうでも善い人がいる、麦と毒麦のように見わけ難い。過ちを犯した人が、後年、罪を償い立ち直るかもしれないし、また逆に立派な人が罪を犯し生涯を台無しにすることもある。毒麦のように見わけ難いのである。この譬えは神の裁きに先だって、性急に人が人を裁いてはならないという教えなのである。
−マタイ13:24−30「イエスは別の喩えを持ちだして言われた。『天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。」主人は「敵の仕業だ」と言った。そこで、僕たちが、「では行って抜き集めておきましょうか」と言うと、主人は言った。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかも知れない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時。『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り入れる者に言いつけよう。」』」