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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2005年9月21日祈祷会(ガラテヤ書1章、福音から離れ始めたガラテヤの諸教会へ)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.福音から離れ始めたガラテヤ諸教会へ

・ガラテヤの諸教会はパウロの伝道によって設立されたが、パウロが立ち去った後、ユダヤ主義者の影響を受けで福音から離れ、律法主義に戻り、割礼さえ受けようとしていた。
-ガラテヤ1:6-7「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、私はあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです」。
・エルサレムからの教師たちは割礼を受けなければ救われないとして、人々に割礼を受けさせようとしていた。パウロは割礼なしに救われないなら、キリストは何のために死なれたのかと人々に迫る。
-ガラテヤ2:21「私は、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」。
・エルサレムの教師たちは、パウロは本当の使徒ではないと主張していた。そのため、パウロは手紙の冒頭で、自分の使徒性は人によらず、キリストと神からの直接の召しによるものであるあることを強調する。
-ガラテヤ1:1-2「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ・・・から、ガラテヤ地方の諸教会へ」。
・私は復活の主に出会い、直接召された。そのキリストは私たちの罪の赦しのために死んで下さった。神はキリストを通して御心を示されたのだ。福音とはキリストに示された十字架と復活以外にはないのだ。
-ガラテヤ1:4「キリストは、私たちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世から私たちを救い出そうとして、御自身を私たちの罪のために献げてくださったのです」。
・異なる福音などない。キリストを信じるか、サタンを信じるかのどちらかだとパウロは迫る。
-ガラテヤ1:8-9「たとえ私たち自身であれ、天使であれ、私たちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。私たちが前にも言っておいたように、今また、私は繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい」。

2.神から直接受けた福音を私は伝えた

・反対者たちはパウロの教えはエルサレム教会の教えと異なるから誤りだと主張した。これに対して、パウロは自分は人から教えられて伝えているのではなく、直接キリストから啓示された福音を伝えていると反論する。
-ガラテヤ1:11-12「あなたがたにはっきり言います。私が告げ知らせた福音は、人によるものではありません。私はこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」。
・パウロはかつては熱心な律法主義者であり、律法への熱心が律法を守らないキリストの教会への迫害に走らせた。今あなたがたは福音から律法に後戻りしようとしているが、律法はキリストの福音と対立するものなのだ。
-ガラテヤ1:13-14「あなたがたは、私がかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。私は、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」。
・キリストに出会って全てが変えられた。私は福音の宣教者として召され、アラビアの荒野でその確信を持たされ、直ちにダマスコでの宣教に赴いた。
-ガラテヤ1:15-17「私を母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子を私に示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、私は、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、私より先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした」。
・3年後にパウロはエルサレムに行き、使徒たちと会うが、彼らの教えを受けるためではなかった。その後シリヤ・キリキヤでの伝道に入る。その期間は14年にも及ぶが、詳細を聖書は述べない。恐らくは特別の業績を上げなかったのだろう。パウロのような劇的な召命を受けた伝道者でも、長い間の訓練と忍耐の時を必要とした。
-ガラテヤ1:21-23「その後、私はシリアおよびキリキアの地方へ行きました。キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。ただ彼らは『かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている』と聞いて、私のことで神をほめたたえておりました」。
・伝道は忍耐である。希望が見えない時でも信じ続ける。その時道が示される。信仰は忍耐と継続だ。
-ローマ5:3-4「私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」。

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