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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年5月12日 ヨハネ12:12−26 イエスのエルサレム入城

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1.エルサレム入城(民衆の期待と弟子の想起)

・イエスがエルサレムに入城された時、民衆は熱狂的にイエスを歓迎した。
−ヨハネ12:12-13「大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。』」
・民衆は死人の復活と言う力ある技を見て、イエスをメシア=解放者として迎えた。民衆が地上の王としてのイエスに期待し、メシアを待ち望む詩篇を持ってイエスを迎えた(ホサナ=私たちに救いを)。
−詩篇118:25-26「どうか主よ、私たちに救いを。どうか主よ、私たちに栄えを。祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する。」
・民衆が求めたのは軍馬に乗って凱旋する解放者であった。しかし、イエスは自分の国が地上の国でないことを示すために、ろばに乗って入城された。
−ゼカリヤ9:9「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。」
・弟子たちは、王を求める民衆の歓呼に何故イエスが応えられないか、その時はわからなかった。イエスの復活後に、初めて、この時の意味がわかった。
−ヨハネ12:16「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。」

2.一粒の麦

・ギリシア人たちがイエスに会いに来た。イエスはその事を通して、最後の時が来た事を知られた。
−ヨハネ12:20-23「祭りの時、礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、・・・フィリポのもとへ来て『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。・・・イエスはこうお答えになった。『人の子が栄光を受ける時が来た』」。
・福音が異邦人にも伝えられるのは最後の時(救いはユダヤ人から始まるとイエスは理解されていた)、その時には、言葉でなく、十字架を通して福音が宣教される。
−ヨハネ12:24「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ。」
・言葉は行為を通じて示される。十字架と言う絶望を通して、復活と言う喜びが与えられ、弟子たちも、この十字架と復活と言う行為を通して、神の御心がわかった。
−?コリ1:18-21「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。・・・ 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」
・イエスが地上の解放者として立たれ、ローマ軍を追放し、イスラエル王国を再建されたとしても、それが何の役に立とう。地上の国はやがて滅びる。滅びないものは、十字架を通して示される天上の国である。
−使徒行伝2:23-24「イエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」
・イエスは言われる「一粒の麦が地中に埋もれ、己に死ぬ時、そこから新しい多くの命が生まれる。私があなた方のために死ぬのだから、あなた方も人のために死になさい」。
−ヨハネ12:25-26「自分の命(プシュケー)を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命(ゾーエー)に至る。私に仕えようとする者は、私に従え。そうすれば、私のいるところに、私に仕える者もいることになる。私に仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
・私たちが、古い地上の命(プシュケー)に死んで、新しい天上の命(ゾーエー)に生きる時、私たちは天の国の住人として、この地上の国を生きる。
−ルカ17:20-21「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

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