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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年12月15日  ローマ7章  律法に死に、恵みに生きる

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.律法に死ぬ

・パウロは、夫婦の結婚生活を例にとって、律法と福音の関係を説明する。
−ローマ7:2-3「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません」。
・同じように、私たちは律法に対して死んだのだから、今は恵みの下にある。
−ローマ7:6「今は、私たちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」。
・では、律法とは罪なのか、そうではない。律法は私たちに罪とは何かを教えるものだ。戦場に行く兵士は、「殺すな」という律法を知らなければ罪責感は覚えない。しかし「殺すな」という律法を通して、罪を知りもだえる。
−ローマ7:7「律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、私は罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう」。
・罪を知り、もだえることは必要だ。このもだえを通して、人は初めて神を求めるようになり、求める者は赦される。この感謝から信仰が生まれる。イエスが言われた「パリサイ人と徴税人の祈り」はそれを示す。
−ルカ18:10-14「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った『神様、罪人の私を憐れんでください』。 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

2.律法は疾患を明らかにし、福音は疾患をいやす。

・人は律法的な生き方を求める。世間の価値観に従って生きることは楽だからだ。人も認め、自分でも満足できる。しかし、このよう生き方は人を神に導かない。悔い改めない限り、神は見えない。
−ルカ6:24-26「富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。」
・私たちは肉体をもって生きている。肉が求めるのは生存本能に基づく欲求だ。食べる物がなく、死ぬしかない状況下で肉は「人のパンを奪っても食べよ」と求め、「貪るな」という霊の欲求はその本能の前に死ぬ。
−ローマ7:15-17「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです」。
・律法が指し示すのは、救いがたい人間の現実である。内なる人は律法を守ろうとするが、外なる力がそれをさせない。「殺すな」という律法を知る者は、戦場ではどうするのか。彼は煩悶するしかない。
−ローマ7:18-19「私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」。
・愛もそうだ。私たちが「誰かを愛する」とはその人を貪ること、見返りを求めることだ。「愛するとはその人のために死ぬことだ」という律法を与えられた時、私たちは真実には人を愛せないことを知る。
−ローマ7:22-24「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」。
・律法は疾患を明らかにする。そして福音はその疾患をいやす。
−ローマ7:25-8:3「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、私自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。・・・ 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」。

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