1.イエス・キリストはマリアの子として生まれられた(1:18−19)。
・母マリアはヨセフと婚約していたが、結婚前に聖霊により身ごもったとマタイは記す。
―マタイ1:18「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」
・この出来事は信仰的に見れば神の歴史への介入であり、人間的にみればマリアが姦淫の罪を犯したことになる。姦淫の罪はユダヤの律法では死罪にあたる罪であった。
―申命記22:22「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。」
・ヨセフはマリアを憐れんで、離縁しようとした。
―マタイ1:19「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」
・義人ヨセフに苦難が与えられる(婚約者の突然の妊娠、明らかになれば婚約者は死罪になる)。神の選びにあずかると言うことは必ずしもこの世の幸福を約束せず、逆にこの世的には苦難(試練)の生き方になる。
―ピリピ1:29「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」
2.ヨセフに主の使いが望み、マリアをめとるように伝える(1:19−23)。
・マリアは聖霊により身重になったのであるから、恐れずに妻として迎えよと主の使いは伝えた。
―マタイ1:20「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」
・私たちはマリアがどのようにして身ごもったかを知らない。しかし、イエスが神の介入として生まれられたことの信仰表現としての、聖霊による受胎は理解できる。パウロもイエスがマリアから生まれたことを述べるのみ。
―ガラテヤ4:4「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。」
・マタイはイエスの誕生は旧約聖書の預言の成就と見ている(1:23)。
−イザヤ7:14「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」
・インマヌエル(神共にいたもう)こそ、マタイの信仰の中心であった。
―マタイ1:23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
―マタイ28:20「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(インマヌエル)。」
3.イエスが処女から生まれられたかどうかという現代人の問いは愚かな問いである。
・2000年前のマタイは「神が人となられた」と言う彼の信仰を処女降誕という表現で示した。処女降誕以上に不思議な出来事は「神が人となられた」と言う行為であろう。
―古代においては偉人は神の子とするのが一般的であった(アレキサンダー大王も神の子として生まれたと歴史書は記す)。
―4福音書のうち、イエスの処女降誕を記すのはマタイとルカのみであり、マルコ、ヨハネは何の言及もしない。
・大事なことはイエスがインマヌエルとして生まれられたことである(約束の成就としてのイエスの生誕)。
―マタイ8:16-17「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」