江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年12月12日祈祷会(エレミヤ書17章、民のかたくなさに苦闘するエレミヤ)

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1.民のかたくなさ悩むエレミヤ

 

・民はバビロニヤに占領され、指導者たちが捕囚されても悔い改めなかった。ダビデ王家も神殿も残されたからだ。悔い改めない民にさらなる災いが与えられる。「神の地を汚したゆえに、神の地から追放されると」。

-エレミヤ17:1-4「ユダの罪は心の板に、祭壇の角に鉄のペンで書きつけられ、ダイヤモンドのたがねで刻み込まれて、子孫に銘記させるものとなる。それらは彼らの祭壇であり、アシェラ像である。それらは、どの緑の木の下にも、高い丘、野の山の上にもある。野から山に登る者よ。私はお前の富と宝を、お前の聖なる高台での罪のゆえに至るところで、敵が奪うにまかせる。私が継がせた嗣業をお前は失う。また、お前を敵の奴隷とし、お前の知らない国に行かせる」。

・人はなぜ偶像礼拝に頼るのだろうか。何故、「私以外の者は拝むな」という神の声を聞けないのだろうか。みな目に見える神が欲しい、祭壇があり、像があることが、人々を安心させる。

-申命記5:7-8「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」。

・主は従う者には豊かな祝福を、そうでない者には不毛の地を与えるとある。悔い改めない者への報酬は不毛である。アフリカでは砂漠化が進み、干ばつと飢餓が繰り返されている。これも神の与える警告なのであろうか。

-エレミヤ17:5-8「主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地、炎暑の荒れ野を住まいとする。祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」。

・アフリカの砂漠化は、人口増加に伴う過放牧、過耕作、森林の過伐採の故と言われる。原因の多くは人為的なものだ。国連は1996年「砂漠化防止条約」を提唱した。その中で、ペシャワール会の中村哲医師は黙々とアフガン砂漠の緑化のために働いた。

-エレミヤ17:13「イスラエルの希望である主よ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は、地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ」。

 

2.エレミヤの告白

 

・エレミヤは主の徹底的な裁きを預言し、預言通りBC597年にバビロニヤ軍が来た。しかし彼らは新しい王を立て、朝貢を約束させると、神殿や王宮を破壊せず戻る。人々は「破滅などなかったではないか」と嘲笑した。

-エレミヤ17:14-16「主よ、あなたが癒してくださるなら、私は癒されます。あなたが救ってくださるなら、私は救われます。あなたをこそ、私は讃えます。御覧ください。彼らは私に言います『主の言葉はどこへ行ってしまったのか。それを実現させるがよい』と。私は、災いが速やかに来るようあなたに求めたことはありません。痛手の日を望んだこともありません。あなたはよくご存じです。私の唇から出たことはあなたの御前にあります」。

・嘲笑に対してエレミヤは報復を願い出る「どうか彼らに真の災いをお与えください」と。この願いはやがてかなえられる。反旗を翻したゼデキヤ王にバビロニヤ軍は再度押し寄せ、王を捕縛し、神殿と王宮を焼き払い、多くのものを捕虜としてバビロンに連れ去った。今回は徹底的な破壊だった。

-エレミヤ17:17-18「私を滅ぼす者とならないでください。災いの日に、あなたこそわが避け所です。私を迫害する者が辱めを受け、私は辱めを受けないようにしてください。彼らを恐れさせ、私を恐れさせないでください。災いの日を彼らに臨ませ、彼らをどこまでも打ち砕いてください」。

・苦難は神から与えられる。その苦難の意味を正しく受け止めない者には最終的な裁きが与えられるだろう。悲惨な苦難は、神の言葉に対する人間の強情さと無責任の結果なのである。

-エレミヤ28:1-14「ユダの王ゼデキヤの治世の初め・・・アズルの子ハナンヤが、祭司とすべての民の前で私に言った 『イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私はバビロンの王の軛を打ち砕く。二年のうちに・・・バビロンへ連行されたユダの王、ヨヤキムの子エコンヤおよびバビロンへ行ったユダの捕囚の民をすべて、私はこの場所へ連れ帰る』・・・主の言葉がエレミヤに臨んだ『行って、ハナンヤに言え。主はこう言われる。お前は木の軛を打ち砕いたが、その代わりに、鉄の軛を作った。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私は、これらの国すべての首に鉄の軛をはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。彼らはその奴隷となる。私は野の獣まで彼に与えた』」。

・ユダ滅亡後、捕囚地においては安息日と割礼が民族のしるしとして守られた。そうしなければ民族が消滅してしまうからだ。24-25節は、安息日を守っていけば、主は再び、ダビデ王家を再建されるとの捕囚民の期待を示している。捕囚前のイスラエルでは、安息日は形式的に守られていただけであった。

-エレミヤ17:24-25「主は言われる。もし、あなたたちが私に聞き従い、安息日にこの都の門から荷を持ち込まず、安息日を聖別し、その日には何の仕事もしないならば、ダビデの王座に座る王たち、高官たち、すなわち車や馬に乗る王や高官、ユダの人々、エルサレムの住民が、常にこの都の門から入り、この都には、とこしえに人が住むであろう」。

 

3.安息日の意味を考える

 

・安息日規定は申命記5章と、出エジプト記20章にある。最初は申命記規定を見る。イスラエルはエジプトで奴隷であり、休むことが許されなかった。だから、救われた今は「休め」といわれる。安息日は祝福であった。

-申命記5:12-15「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」。

・出エジプト記の安息日規定は天地創造の感謝から来る。

-出エジプト記20:8-11「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。

・安息日規定には二つの意味がある。一つは「七日目ごとに休め」という神の命令がそこにあることだ。人間は休まなければ体が壊れる。労働医学では1カ月の残業時間が45時間(一日2時間)を超えると健康に影響が生じ、100時間(一日4時間)を超えると、心疾患や脳血管疾患の発生リスクが高まるとする。「休んで体力を回復せよ」との祝福が語られている。もう一つは「七日目を聖なる日として守れ」という命令だ。人は神により生かされている、その感謝を七日目ごとに捧げることによって、精神の健康を維持せよとの配慮である。安息日は人が心身ともに健康に過ごせるように定められた。

・私たちは日曜日ごとに教会に集まり、神の言葉を聞く。そして励ましと休みを受けて、残りの6日を元気に働くために出ていく。カール・バルトは教会教義学の中で、キリスト者の倫理を「神の御前での自由」という表題で記し、さらに安息日を巡る問題を「祝いと自由と喜びの日」として書き始めている。日曜日を「礼拝を守らなければいけない日」と考えた時、それは私たちを縛る日になる。日曜日を「礼拝に参加することが出来る日」に変えることが出来れば、私たちの人生はどんなにか豊かになる。「礼拝に来てよかった」、「礼拝に来て生き返った」、どうすればそのような礼拝を捧げることができるのか、私たちの教会の課題だ。

・バビロン捕囚は歴史的に見れば、大国バビロニヤが小国ユダを征服し、その住民を捕虜として連れ去った出来事であり、歴史上、ありふれた事件である。しかし、信仰の目で見れば、「神がバビロニヤ王を用いてユダの民を懲らしめ」、「その懲らしめを通してユダを救われる」出来事だ。国の滅亡や捕囚を通して、神の救いの業がなされている。国を滅ぼされ、神殿もダビデ王家もなくなり、帰還の道を断たれた民は、バビロニヤで生きることを受け入れ、神が何故自分たちを滅ぼされたのかを求めて、父祖からの伝承を集め、編集していった。創世記や出エジプト記、申命記等の旧約聖書の中核が編集されたのは、この捕囚期である。イスラエルの民は捕囚、国家の滅亡を通して、ダビデ王家とエルサレム神殿を中心とする「民族共同体」から、神の言葉、聖書を中心にする「信仰共同体」に変えられて行った。

・そして聖書は紀元前3世紀に当時の世界共通語であるギリシャ語に翻訳され(70人訳聖書、セプターギンタ)、民族を超えた正典になって行く。各地に散らされたイスラエルの民はそれぞれの地にシナゴーク(礼拝所)を立て、ギリシャ語聖書を読み、そこに主を求める人々が集められていく。バビロン捕囚という悲痛な出来事がなければ旧約聖書は生まれず、旧約聖書がなければ新約聖書も生まれなかった。

・バビロン捕囚を人々は「滅びの出来事」だと思ったが、エレミヤは「それは『平和の計画』であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(29:11)と語る。人は裁きを通して初めて悔い改め、悔い改めた者に、祝福が与えられる。「病まなければささげ得ない祈りがあり、病まなければ信じ得ない奇蹟があり、病まなければ聴き得ない御言葉がある」(河野進・祈りの塔より)。ここには病気や死が呪いから祝福になっていく世界が示されている。私たちに予想もしない苦難が与えられることがある。耐えられない重荷が与えられる時がある。その時、私たちは叫ぶ。「わが神、わが神、どうして」と。その叫びを通して私たちは神に求め、神は応答される「私のくびきを担いなさい。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである」。

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