江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年11月7日祈祷会(エレミヤ書12章、エレミヤの嘆きと神の嘆き)

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1.エレミヤの嘆き

 

・ヨシヤ王の宗教改革に賛成したエレミヤは郷里アナトトの人々に命を狙われた。彼がエルサレムへの礼拝集中に賛成し、地方聖所を持つアナトトの利益を害したからだ。命を狙われたエレミヤは故郷の人々への報復を主に願い、主はそうしようと約束される。アナトトはバビロン軍侵攻の時に破壊されたと歴史は伝える。

-エレミヤ11:21-23「アナトトの人々はあなたの命をねらい、『主の名によって預言するな、我々の手にかかって死にたくなければ』と言う。それゆえ、万軍の主はこう言われる『見よ、私は彼らに罰を下す。若者らは剣の餌食となり、息子、娘らは飢えて死ぬ。一人も生き残る者はない。私はアナトトの人々に災いをくだす。それは報復の年だ』」。

・しかしエレミヤの気持ちはおさまらない。良かれと思って行為したのに故郷の人々は何故理解しないのか、そもそもこの世では「悪が栄え、善人が虐げられている」現実がある。「この世に悪が存在するにもかかわらず、神は正しく正義である」と言いうるのか、後世の合理主義者により提示された「神議論」(なぜ悪があるのか)がここにある。

-エレミヤ12:1-2「正しいのは、主よ、あなたです。それでも、私はあなたと争い、裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。あなたが彼らを植えられたので、彼らは根を張り、育って実を結んでいます。口先ではあなたに近く、腹ではあなたから遠いのです」。

・エレミヤは「悔い改めなければ主はお前たちを滅ぼされる」と預言してきた。しかし悪人が「神は我々を滅ぼされない」とうそぶく中で、どのように預言を続けていったらよいのか、彼は悩む。

-エレミヤ12:3-4「主よ、あなたは私をご存じです。私を見て、あなたに対する私の心を、究められたはずです。彼らを屠られる羊として引き出し、殺戮の日のために取り分けてください。いつまで、この地は乾き、野の青草もすべて枯れたままなのか。そこに住む者らの悪が鳥や獣を絶やしてしまった。まことに、彼らは言う『神は我々の行く末を見てはおられない』と」。

・信仰は理屈ではない。私たちに言えることは「すべてが明らかになる時がくる時まで待て」ということだ。

-第一コリント13:12「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、その時には・・・はっきり知ることになる」。

 

2.神の嘆き

 

・神はこのような愚かな問いには答えられず、逆にエレミヤに反問される「徒歩の者と競争して疲れるのであれば、どうして騎馬の者と争いえようか。裁きは始まったばかりであり、事態はこれから悪化する」。これから起こる出来事に比べれば、故郷の人々の裏切りが何ほどのものか。「元気を出せ、最悪期はまだ来ていない」。

-エレミヤ12:5-6「あなたが徒歩で行く者と競っても疲れるなら、どうして馬で行く者と争えようか。平穏な地でだけ、安んじていられるのなら、ヨルダンの森林ではどうするのか。あなたの兄弟や父の家の人々、彼らでさえあなたを欺き、彼らでさえあなたの背後で徒党を組んでいる」。

・私たちは自分の苦しみだけに囚われ、「自分は何と不幸か」と煩悶する。しかし周りを見渡すと、もっとひどい状況で苦しんでいる人も多い。苦しみの相対化が必要だ。自己の苦しみを相対化した時に、エレミヤに見えてきたのは、神の苦しみだ。エレミヤは故郷の人々に裏切られたが、神はご自分の民に裏切られているのだ。

-エレミヤ12:7「私は私の家を捨て、私の嗣業を見放し、私の愛するものを敵の手に渡した。私の嗣業は私に対して、森の中の獅子となり、私に向かってうなり声をあげる。私はそれを憎む」。

・神の嗣業と呼ばれたイスラエルは、やがて隣国のシリアやモアブ、アンモンという猛禽たちに狙われ、さらにはバビロンというハイエナに食われる。その結果、約束の地は荒らされ、荒野となっていく。

-エレミヤ12:9「私の嗣業は私にとって、猛禽がその上を舞っている、ハイエナのねぐらなのだろうか。野の獣よ、集まって餌を襲え。多くの牧者が私のぶどう畑を滅ぼし、私の所有地を踏みにじった。私の喜びとする所有地を打ち捨てられた荒れ野とし、それを打ち捨てられて嘆く地とした。それは打ち捨てられて私の前にある」。

・神は愛する故に、イスラエルの罪を憎み、彼らを滅ぼされる。それは民をもう一度再生させるためだ。「建てるために一旦壊す」(エレミヤ1:10)。エレミヤはその滅びを預言する。

-エレミヤ12:12-13「荒れ野の裸の山に略奪する者が来る。主の剣はむさぼる、地の果てから果てまで。すべて肉なる者に平和はない。麦を蒔いても、刈り取るのは茨でしかない。力を使い果たしても、効果はない。彼らは収穫がなくてうろたえる、主の怒りと憤りのゆえに」。

 

3.故郷アナトトの土地を買うエレミヤ

 

・前589年10月、バビロン軍は大軍をもってエルサレムを包囲していたが、その時、エレミヤは王宮の獄舎に捕えられていた。彼がバビロン軍の勝利を預言し、ゼデキヤ王は捕囚とされると預言したからだ。捕えられているエレミヤの所に、故郷アナトトから甥ハナムエルが訪ねる。「伯父シャルムが土地を売るので買い戻してほしい」との要件である。ユダでは親族以外ものものは土地を買えなかった(レビ記25:25)。おそらく他の親族はみな断り、エレミヤの所に話が来た。彼は買い取りを承諾する。主が「そうせよ」と言われたからだ。

-エレミヤ32:6-8「エレミヤは言った『主の言葉が私に臨んだ。見よ、お前の伯父シャルムの子ハナムエルが、お前のところに来て、“アナトトにある私の畑を買い取ってください。あなたが、親族として買い取り、所有する権利があるのです”と言うであろう』。主の言葉どおり、いとこのハナムエルが獄舎にいる私のところに来て言った『ベニヤミン族の所領に属する、アナトトの畑を買い取ってください。あなたに親族として相続し所有する権利があるのですから、どうか買い取ってください』。私は、これが主の言葉によることを知っていた」。

・アナトトは今バビロン軍の占領下にあり、土地は無価値だ。国が滅亡する時、エレミヤの生存も保証されていない。しかし、エレミヤはそれが主の命令であると知るゆえに無価値の土地を銀17シュケルで買った。それは「これらの証書、すなわち、封印した購入証書と、その写しを取り、素焼きの器に納めて長く保存せよ。イスラエルの神、万軍の主が、“この国で家、畑、ぶどう園を再び買い取る時が来る”と言われるから」である。

・主の命令は不条理だ。バビロン軍は明日にも城壁を破って突入し、国は滅びるだろう。この都が滅びるまさにその時、「あなたは私に土地を買えと言われるのか」とエレミヤは主に抗議する。主はそのエレミヤに答えられる「私にできないことがあろうか。この都を滅ぼすのは私だ。その私がこの都を再建することができないとあなたは言うのか」と。世界は神が支配してられるのか、それとも人間か。人間であれば人は何の希望も持立てない。弱い者は滅ぼされるのみだ。しかし神であれば異なる。

・主の言葉は続く「この地は廃墟となろう。しかしその廃墟を私は再びよみがえらせる。人々が再び土地を売買する平和をこの地に与える」と。占領下の土地売買は、今は無価値であっても、エルサレムが回復した折には、価値が出る。エレミヤ書はバルクによってまとめられ、やがて正典となって、捕囚地の人々にも届けられた。廃墟の地で土地を買うということは、「来るべき回復の時を信じる」ことであり、気落ちしていた捕囚民に大きな慰めをもたらしたであろう。同時にそれは捕囚期をはるかに超えて、続く旅路を主によって導かれる私たちに告げる福音ともなった。

・廃墟となる土地を買う、そのことに何の意味があるのかと人は言うだろう。しかし神は「そのことに意味がある」と語られる。旧約学者の左近豊氏は語る「私たちの生涯は70年か80年だが、私たちは人生を超える出来事を行う」ことが可能なのである。

-左近豊、エレミヤ書を読もう「預言者の土地購入の事実が素焼きの器だけでなく、このエレミヤ書に書き記され、共同体の正典として保管されることになったことは重要です。それは預言者個人の売買そのもの、またその生涯を越えます。聖書の民にとって、捕囚による土地喪失も永遠の遺棄ではなく、旅の途上にあることとして、さらには捕囚期をはるかに超えて続く地上の旅路を導いておられる方を仰ぎ見る信仰へと導くものなのです」。

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