江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年9月7日祈祷会(箴言17章、愛を求める人は罪を覆う)

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  1. 乾いたパンの一片しかなくとも

 

・箴言は、人がどのような富を得ようとも、家庭が平和でなければ幸福ではないと繰り返し警告する。

-箴言17:1「乾いたパンの一片しかなくとも平安があれば、生贄の肉で家を満たして争うよりよい」。

・先の15章の格言も同じ意味であろう

-箴言15:17「肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい」。

・経済的に豊かになっても幸せにはなれない。世界幸福度調査において、日本の幸福度は低い(国連幸福度調査2012年:日本44位/156カ国、OECD幸福度調査2012年:日本21位/36カ国)。吉中季子氏調査(名寄市立大学)によれば、幸福度は社会的孤立度と反比例しており、日本の社会的孤立度(日常生活の中で自分以外の人と過ごす時間が殆ど無い)は15.3%とずば抜けて高く(アメリカ3.1%、デンマーク3.3%、ドイツ3.5%、韓国7.5%等)、孤立度の高い国の幸福度は低い。正に箴言や詩篇の教える通りである。

-詩篇133:1-3「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り、ヘルモンにおく露のように、シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された、祝福と、とこしえの命を」。

 

2.愛を求める人は罪を覆う

 

・箴言の難しさは、訳によって微妙に意味が変わってくることだ。ヘブル語は母音表記がなく、解釈者によって意味が異なってくる。箴言17:9も訳文の違いが大きい。

-箴言17:9 (新共同訳)「愛を求める人は罪を覆う。前言を翻す者は友情を裂く」。

-箴言17:9 (口語訳)「愛を追い求める人は人の過ちを許す。人のことを言いふらす者は友を離れさせる」。

-箴言17:9(新改訳)「背きの罪を覆う者は、愛を追い求める者。同じことを繰り返して言う者は、親しい友を離れさせる」。

・口語訳が一番心に響く「愛を追い求める人は人の過ちを許す」。それはパウロの「愛は隣人に悪を行わない」という言葉にも共鳴する。

-ローマ13:8-10「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」。

・悪に対してどう対処するか。イエスは「抵抗するな」と言われた(マタイ26:52「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」)。パウロは一歩進めて、「悪に対して善で報いよ」と語る。-ローマ12:20-21「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。

・曽野綾子の小説「燃えさかる薪」は、「復讐は主に委ねる」ことを題材にした小説だ。シンガポールに暮らす亜季子は、浮気を重ねる夫との生活に嫌気がさし、離婚を告げ、日本に住む新しい恋人との新生活に臨む。そんなある日、前の夫が爆発事故のせいで大火傷を負ったとの知らせが届く。今、彼の回りには、彼を愛し、世話する人は誰もいない。彼女は仕方なく、シンガポールに戻って夫の看病をし、彼が癒しの奇跡を求めて聖地ルルドに行きたいと言えば、付き添ってフランスへ行く。ある機会に彼女はローマ12章の言葉に触れる。そして「自分を裏切り、ひどい目にあわせ、今は助ける人もなくなった前夫に、自分の生涯を捧げることが自分の生きる道である」ことを知らされ、新しい生活を断念してシンガポールに戻る。

・聖書の言葉の文字通りの実行は難しい。一人のNYに住む無神論ユダヤ人記者が1年間聖書の戒律を無条件に実行した記録が話題になっている(A.J.ジェイコブズ「聖書男」、阪急コミニュケーションズ、2011年)。下に書評を記すが、無条件に聖書の教えに取り組む大事さを伝えていると思えた。

-聖書男(原題:聖書に生きた1年間)書評から「リベラルなユダヤ系アメリカ人で編集者を本業とする著者が、聖書に書かれている数百にも及ぶ決まり事を守りながら一年間生活した記録。髭を切らない、嘘をつかない・・等わかりやすいところから始まり、何でも体験しようと鶏の生け贄の儀式に参加したり、エルサレムを旅行して羊飼いを体験したり、自分とは全く違う考えにも触れようとキリスト教原理主義者やエホバの証人にまでインタビューを敢行。当初は「現代社会で聖書の決まりを守るのがどれだけ大変かつ迷惑で滑稽か」を記そうとしていた筆者が、少しずつ神聖なもの=生命に対して敬虔になっていく。形から入ろうとして心まで変化する様が日を追うごとにはっきりしてくる」。

 

  1. どのような時にも友を愛せよ

 

・人生の最大の課題は次々に襲いかかる苦難にどう対処するかであるが、どのような時にも共にいてくれる友の存在ほど有難いものはない。

-箴言17:17「どのような時にも、友を愛すれば、苦難の時の兄弟が生まれる」。

・精神の不調は体の不調になりやすい。逆に「喜びを抱く心は体を養う」。

-箴言17:22「喜びを抱く心は体を養うが、霊が沈みこんでいると骨まで枯れる」。

・人の心は移ろいやすい。ある時の友が時間の経過とともに友ではなくなることもある。失望や落胆を乗り切るのに必要なものは「イエスの死を体にまとう」ことだ、とパウロは語る。「死(ネクロス、十字架にかけられたままのイエス)」をまとう時、「四方から苦しめられても行き詰まらず」、「途方に暮れても失望しない」生き方になる。人から裏切られても、立ち直ることができる。

-第二コリント4:8-11「私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。私たちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」。

・福音には人を立ち上がらせる力がある。しかし多くの人はそれに気づかない。パウロは「ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のようになった」(第一コリント9:19-23)と語った。私たちは日本人に語る言葉を見出す必要がある。そのためには教義的事柄(受肉、三位一体、贖罪等、それらは4世紀以降に確立した西洋教会の伝統である)ではなく、生きた神学(福音がどれほど人を生かすか)を語るべきであろう。

・宗教社会学者のロバート・ベラーは、著書「善い社会」の中で、アメリカ・メソジスト教会の一人の牧師の言葉を紹介している。牧師は語る「ヘブライ人への手紙の著者が誰であるかはどうでも良い。それは死んだ神学だ。生きた神学はこの書が私の人生にどのような意味を持つのかを教える。ヘブル13章5節は語る「主は『私は、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました」。16歳の娘の麻薬が発覚した時、この言葉はどのように私を導くのか。会社が買収されて24年間勤務した職場を去らなければいけない時、この言葉の意味は何なのか、それが問題なのである」(ロバート・ベラー「善い社会」、p207-208)。

・生きた神学の一つがカトリック教会の重視するケノーシス(自己無化)かも知れない。それは「祈り、かつ働く」方向性である。

-粕谷甲一・第二バチカン公会議と私たちの歩む道から「己を空しくして相手のことを中心に自分の行動を決めていく。それは人間の自然性に反しているから、祈りとか秘蹟なしには難しい。マザーテレサの実行した二つの聖体拝領(朝出かける前に聖体=ミサのパンをいただき、町に出て仕えることによって別の聖体をいただく)の中にその秘訣があるのではないか」。

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