江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年9月21日祈祷会(箴言19章、家族の脆さに対する警告)

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1.貧しさと豊かさに関する教え

 

・「この世では富を持つことが友を得る道であり、貧しさは孤立をもたらす」と箴言は語る。世の現実はそうだ。豊かであることは幸福度の重要な指標だ。

-箴言19:4-7「財産は友の数を増す。弱者は友から引き離される・・・高貴な人の好意を求める者は多い。贈り物をする人にはだれでも友になる。実の兄弟も皆、貧しい人を憎む。友達ならなお、彼を遠ざかる」。

・しかし豊かさだけが幸福の指標ではない。富は往々にして不正な手段によって獲得される。箴言著者はそれをわきまえている。

-箴言19:1(新改訳)「貧しくても、誠実に歩む者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる」。

-箴言19:22(口語訳)「人に望ましいのはいつくしみ深いことである、貧しい人は偽りを言う人にまさる」。

・宗教社会学者ロバート・ベラーは著書「良い社会」の中で語る「グローバル市場経済の指標は利害損得である。しかし、教会は私たちが究極的な問題と取り組むのを助けてくれる。すなわち、費用便益計算(利害損得)以上のもの、欲望以上のものに基づいて生きるための道を探ることである」。

-箴言19:21「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」。

・私たちはイエスが語られた「愚かな金持ちの喩え」に注目したい。命は金では買えない。

-ルカ12:16-20「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめと』。しかし神は『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」。

 

2.家族の脆さに対する警告

 

・両親がいて、子供たちがいても、それだけでは幸福な家庭を形成する事はできない。愚かな息子一人がいれば家庭は崩壊する。

-箴言19:13「愚かな息子は父の破滅。いさかい好きな妻は滴り続けるしずく」。

-箴言19:26「父に暴力を振るい、母を追い出す者は、辱めと嘲りをもたらす子」。

・家庭内暴力に悩む親が息子や娘を殺す事件が続出している。2014年12月4日朝日新聞はある裁判結果の報道をした「今年6月、東京都内に住む男性(65)が自宅で就寝中の三男(当時28)を刃物で刺し、殺害した。11月に東京地裁立川支部であった裁判公判で、男性ら家族が、精神の障害がある三男の暴力に悩み、追い詰められていたことが明らかになった。検察側や男性の証言などによると、三男は約10年前から精神科に通っていたが、症状は悪化。次第に家族に暴力を振るうようになった。男性は主治医や保健所、警察などに相談し、三男の入院を懇願していたが、断られていた。地裁支部は11月21日、「相当やむを得ない事情があった」と男性に懲役3年執行猶予5年の判決を言い渡した。双方とも控訴せず、今月6日に判決が確定した」。この記事に多くの反響が寄せられた「どうにかならなかったのか」、「ひとごととは思えない」。問題の根は深い。箴言は「望みのあるうちに息子を諭せ」というが、それは可能なのであろうか。

-箴言19:18「望みのあるうちに息子を諭せ。死なせることを目指してはならない」。

・毎日新聞で連載された桐野夏生「だから荒野へ」がNHKでドラマ化され、話題になった。日常生活に疲れた46歳の主婦が、夫と二人の子(大学生、高校生)を捨てて家出する。家族から家事ロボット以上の役割を期待されていない現実への絶望が、エクソダス(脱出)をもたらした。たとえ家族がいても、たとえ不自由のない経済生活があっても、そこに愛情と絆がなくなれば、家庭もまた「荒野」になってしまう。

-箴言19:14「家と財産は先祖からの嗣業。賢い妻は主からいただくもの」。

 

3.人は自力救済可能性がある時は神の言葉を聞かない

 

・箴言は智恵文学に属する。智恵の言葉こそが人を生かす。だから智恵を求めよと箴言は語る。

-箴言19:20「勧めに聞き従い、諭しを受け入れよ。将来、知恵を得ることのできるように」。

・そのためには、時には手荒な行動も、鋭い叱責も必要になる。

-箴言19:25(口語訳)「あざける者を打て、そうすれば思慮のない者も慎む。さとき者を戒めよ、そうすれば彼は知識を得る」。

・愚者は打ち叩かれる。杖は嘲る者を打つために用意されている。

-箴言19:29「不遜な者に対しては罰が準備され、愚か者の背には鞭打ちが待っている」。

・パウロはコリント教会に「涙の手紙」と呼ばれる叱責の手紙を書いた。その手紙は現存していないが、パウロに対して侮辱を加えた人物を教会から除名するように求める激しさを持っていた。牧会者が教会を批判する手紙を書くことは痛みを伴う、涙なしには書けない。パウロは厳しい叱責の手紙を送り、彼らを責めたことを後悔したが、彼らが悲しむだけでなく、悔い改めたと分かり、喜ぶ。時には叱責が必要なのだ。

-第二コリント7:10「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。

・旧約聖書を見れば、人は苦難を通して初めて神を求め、神の応答を通して歴史が形成されることが見える。イスラエルはバビロニアに国を滅ばされ、自分たちが何故砕かれたのかを求め、その求めの中で旧約聖書が編集され、聖書の民に変えられていった。イスラエルを滅ぼしたバビロニアも、そのバビロニアを制圧したペルシャも今はいないが、イスラエルの民は2500年の歴史を生き抜き、同じ民族として現在も生きている。彼等を生かし続けたものは明らかに、苦しみの中で与えられた聖書だった。私たちも人生において多くの苦難に出会い、その苦難はある時には限界を超えているように思われ、絶望した人たちは自殺していく。しかし、苦難には意味があり、苦難を通して神が語られていることを知る者は、その苦難が時の経過と共に祝福に変えられていくのを知る。

-ヨブ記19:25-26「私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう」。

・イザヤに語れと命じられたのは「滅びの預言」であった。誰も滅びの預言など聞かない。イザヤは主の言葉を語れれば語るほど、民に憎まれ、迫害されると予告される。

-イザヤ6:9-10「主は言われた『行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために。』

・滅びの言葉が語られても民は聞かない。それは自分たちが滅ぼされるべき罪人と認識しないからだ。「民が聞かないのに何故遣わすのですか」とイザヤは尋ねる。主は「国が滅びた後に民は聞く」と答えられる。

-イザヤ6:11-12「私は言った『主よ、いつまででしょうか』。主は答えられた『町々が崩れ去って、住む者もなく、家々には人影もなく、大地が荒廃して崩れ去るときまで』。主は人を遠くへ移される」。

・預言者の言葉は国が滅びた時に、初めて聴かれる。滅びるまで人は自分の罪を知ることが出来ないからだ。バビロン捕囚の民は流刑の地でイザヤの言葉を聴きなおし、悔い改めた。主は彼らから新しい国を造られる。神の言葉は人が「限界状況」に面した時に、初めて響いてくる。

-ヨブ記36:15-17「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いてくださる。神はあなたにも苦難の中から出ようとする気持を与え、苦難に代えて広い所でくつろがせ、あなたのために食卓を整え、豊かな食べ物を備えてくださるのだ。あなたが罪人の受ける刑に服するなら、裁きの正しさが保たれるだろう」。

・E.ケーゼマンは語る「信仰は常に可能性の墓場を乗り越えて成長する」。人間の力が絶えた所から神の力が働く。イザヤやヨブが苦難の中で見出した真理、「私を贖う者は生きておられる、生きて私と関わりを持とうとされている」、これこそが福音であり、私たちの信仰だ。私たちはこの福音を伝えるためにこの教会に集められている。私たちはこの福音を「この苦しみの中でどうしてよいのかわからない」と戸惑い嘆く人々に伝えていく。

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