- 愚か者と離れよ
・箴言26章には愚か者、怠け者、争い好きな者たちへの激しい風刺がある。最初に語られるのは愚か者についてである。「馬に鞭」、「ろばにくつわ」が必要なように、「愚か者には懲らしめの杖」が必要だと語られる。
-箴言26:1-3「夏の雪、刈り入れ時の雨のように、愚か者に名誉はふさわしくない。鳥は渡って行くもの、つばめは飛び去るもの。理由のない呪いが襲うことはない。馬に鞭、ろばにくつわ、愚か者の背には杖」。
・神学者ラインホルド・ニーバーは1944年の講演で「光の子と闇の子」を語った。光の子である民主主義国家が、闇の子であるナチスにその知恵で劣るのは何故かを主題にしている。民主制(democracy)は民衆(demos)の支配する(kratia)体制であるが、アリストテレスはこれを「衆愚制」と呼んだ。選挙の時だけ投票する民衆は結果に責任を負わず、負担を拒否し、目先の利益を求め、それに迎合する政治家が現れる時、衆愚制に堕すると語る。箴言と合わせて考える時、確かに一面の真理はある。
-箴言26:6-10「愚か者に物事を託して送る者は、足を切られ、不法を呑み込まされる。愚か者の口にすることわざは、歩けない人の弱い足。愚か者に名誉を与えるのは、石投げ紐に石を袋ごとつがえるようなものだ。愚か者の口にすることわざは、酔っぱらいの手に刺さるとげ。愚か者を雇い、通りすがりの人を雇うのは、射手が何でもかまわず射抜くようなものだ」。
・愚か者は自分の愚かさを繰り返すと箴言は語る。しかし自分を賢いと思う者よりはましだと。
-箴言26:11-12「犬が自分の吐いたものに戻るように、愚か者は自分の愚かさを繰り返す。自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる」。
・ペテロ書は、一旦信仰に入ったものが棄教することを、箴言を用いて鋭く批判する。
-第二ペテロ2:20-22「私たちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。ことわざに、『犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る』また、『豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る』と言われている通りのことが彼らの身に起こっているのです」。
- 怠け者と付き合うな
・13-16節には怠け者が戒められる。彼らは働かない理由を次々に上げて何もしようとしない。
-箴言26:13-16「怠け者は言う『道に獅子が、広場に雄獅子が』と。扉はちょうつがいに乗って回転する。怠け者は寝床の上で寝返りを打つ。怠け者は鉢に手を突っ込むが、口にその手を返すことをおっくうがる。怠け者は自分を賢者だと思い込む、聡明な答えのできる人七人にもまさって」。
・今、日本には、300万人の引きこもり者がいるという(引きこもり160万人+準引きこもり者140万人)。推計では彼らの平均年齢は30~40歳である。彼らは怠け者ではないが、外形的には怠け者という目で見られるだろう。心理学者は、引きこもり者は自己肯定感が持てない人が多いと語る。自己肯定感は他者からの受容により与えられる。自分が生きていることの意味を知らされた時、彼らの人生は変わるであろう。ルカ19章のザアカイのように、である。
-ルカ19:1-10「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった・・・イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい』。ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた・・・ザアカイは立ち上がって、主に言った『主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します』。イエスは言われた『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである』」。
- 争い好きな者への対応
・世の中には「争い好きな人」がいる。彼らは自分に関係のない事柄に首を突っ込み、「人々の間に死の矢を打ち込む」と箴言は語る。
-箴言26:17-19「通行人が自分に関係のない争いに興奮するのは、犬の耳をつかむようなものだ。分別を失った者が、火矢を、死の矢を射る。友人を欺く者はそれに等しい。しかもふざけただけではないかと言う」。
・川崎市で殺された中学1年生の加害者と見られる5人の少年たちの名前や顔写真がネットに出回った。自分に関係のない出来事であっても、彼らは出来事を針小棒大に書き込み、騒動になるのを喜んでいる。彼らは火事場に薪を投げ込む行為をしているとの自覚がない。
-箴言26:20-22「木がなければ火は消える。陰口を言う者が消えればいさかいは鎮まる。炎には炭、火には木、争いを燃え上がらせるのはいさかい好きな者。陰口は食べ物のように呑み込まれ腹の隅々に下って行く」。
・「平気でうそをつく人たち~虚偽と邪悪の心理学」(M・スコット・ペック 著)がベストセラーになっている。人間は本質的に悪であるが、その中にも改善期待の持てない邪悪な人々がいるのだろうか。
-箴言26:23-28「唇は燃えていても心に悪意を抱いている者は、混じりもののある銀で覆った土器のよう。唇をよそおっていても憎悪を抱いている者は、腹に欺きを蔵している。上品な声を出すからといって信用するな、心には七つの忌むべきことを持っている。憎しみはごまかし隠しても、その悪は会衆の中で露見する。穴を掘る者は自分がそこに落ち、石を転がせばその石は自分に返ってくる。うそをつく舌は憎んで人を砕き、滑らかな舌はつまずきを作る」。
4.自分の正義を振りかざしてはいけない(ガザ紛争の解決を祈って)
・ユダヤ人歴史家ユヴァル・ノア・ハラリ(サピエンス全史の著者)は、2023年10月19日米ワシントンポスト紙に寄稿した。「今回のガザ紛争はイスラム原理主義者とユダヤ原理主義者の戦いであり、双方が絶対的正義を振りかざす限り、平和は訪れない」と語る。この世の平和は対話を拒否する時には生まれない。
-「10月7日、ネタニヤフ政権が地域の平和のために大きく前進しようとしている矢先に、ハマスは全力を挙げて襲いかかった。ハマスは、これ以上ないほど陰惨な手口で何百人ものイスラエルの一般市民を虐殺した。彼らの狙いは、イスラエルとサウジアラビアの平和条約締結を挫折させることだった。そして長期的な狙いは、イスラエルとイスラム世界の何百万もの人の心に憎しみの種を蒔き、今後何世代にもわたってイスラエルとの和平を妨げることだった。イスラエルは、アラブ首長国連邦とバーレーンとの平和条約に調印した後、サウジアラビアと歴史的な平和条約を今にも締結しようとしていた・・・サウジアラビアとアメリカが強く求めたため、その平和条約の条件には、パレスティナに対する大幅な譲歩が含まれることになっていた。イスラエルの占領地域に暮らす何百万もの人の苦しみをただちに和らげ、イスラエルとパレスティナの和平交渉を再開するためだ」。
-「和平と国交正常化が実現する見通しは、ハマスにとっては致命的な脅威だった。このイスラム原理主義組織は1987年の設立当初から、イスラエルが存在する権利を一度も認めたことがなく、徹底した武力闘争を旨としてきた。1990年代には、ハマスはオスロ合意と和平に向けたその後の努力を頓挫させることに全精力を傾けた。ハマスによる攻撃は途方もない規模の惨害を引き起こすことを狙っていた。ハマスは、この戦争でパレスティナの一般市民が被る苦しみが気にならないのだろうか。ハマスの活動家たちの世界観は個人の苦悩を考慮に入れない。ハマスの政治的な狙いは、宗教的幻想に染まっているのだ。ハマスの究極の目的は現世のものではない。ハマスにとって、イスラエルに殺されたパレスティナ人は殉教者であり、彼らは天国で永遠の至福を享受する。殺されれば殺されるほど、殉教者が増えるわけだ」。
-「ハマスのような原理主義組織は、絶対的な正義を信じる。それが、この世の現実の複雑さを認めることの拒絶につながる。正義は高邁な理想だが、絶対的な正義を求めれば必ず、果てしない戦争を招く。世界史上、妥協を必要としない平和条約や絶対的な正義を提供する平和条約が締結されたことはかつてない。もし現にハマスの戦争の狙いが、イスラエルとサウジアラビアの平和条約締結を頓挫させ、国交正常化と和平の可能性をすべて台無しにすることにあるとすれば、彼らはこの戦争でKO勝ちを収めようとしている。」
-「ネタニヤフが2022年12月に樹立した連立政権は、救世主メシア信仰の狂信者たちと厚顔無恥な日和見主義者たちの同盟であり、彼らは、治安状況の悪化をはじめ、イスラエルが抱える問題の数々を顧みず、際限なく権力を我が物にすることしか眼中になかった。フェンスの両側には、神の約束と1948年の戦争(訳注:第1次中東戦争)に固執する宗教的狂信者がいる。パレスティナ人は、あの戦争の結果を覆すことを夢見る。だが、これ以上の事態の悪化は防がなければならない。現在この地域の勢力の多くは、無責任な宗教的狂信者が率いている。従って、外部の勢力が介入して、この紛争を鎮静化させる必要がある」。