1.悪人が栄え、善人が虐げられる現実の中で
・詩編73篇は「悪人が栄え、善人が虐げられる現実」の中で、信仰者はどう生きるべきかを歌った知恵の詩編である。詩人は邪悪な者たちの安泰(シャローム)に躓きを覚えている。「彼らは栄えているのに自分は苦労ばかりだ」と詩人は嘆く。
-詩編73:1-3「賛歌。アサフの詩。神はイスラエルに対して、心の清い人に対して、恵み深い。それなのに私は、あやうく足を滑らせ、一歩一歩を踏み誤りそうになっていた。神に逆らう者の安泰を見て私は驕る者をうらやんだ」。
・邪悪な者たちは生の苦労も死の恐怖もなく、傲慢と不法を身にまとい、それなのに神の祝福(シャローム)を受けている。健康、富、長寿、子孫の繁栄は神の祝福のしるしとされていた。何故邪悪な者にそのような祝福が臨むのか。
-詩編73:4-6「死ぬまで彼らは苦しみを知らず、からだも肥えている。だれにもある労苦すら彼らにはない。だれもがかかる病も彼らには触れない。傲慢は首飾りとなり、不法は衣となって彼らを包む」。
・彼らははばかることなく悪を行い、神を畏れない。彼らは言う「神は何も知らない、神に何が出来るのか」。
-詩編73:7-12「目は脂肪の中から見まわし、心には悪巧みが溢れる。彼らは侮り、災いをもたらそうと定め、高く構え、暴力を振るおうと定める。口を天に置き、舌は地を行く・・・そして彼らは言う『神が何を知っていようか。いと高き神にどのような知識があろうか』。見よ、これが神に逆らう者。とこしえに安穏で、財をなしていく」。
・他方、詩人を取り巻く状況は厳しい。彼は手を洗い(不正を行わない)、心を清く(正しく)持とうと努めているのに、彼の生活は貧しく、苦難ばかりが訪れる。こんな生活に意味があるのか、邪悪な者たちが勝手気ままを行って神の祝福を受けているのであれば、私もそうしようと彼の心は揺らいだ。
-詩編73:13-15「私は心を清く保ち、手を洗って潔白を示したが、むなしかった。日ごと、私は病に打たれ、朝ごとに懲らしめを受ける。『彼らのように語ろう』と望んだなら、見よ、あなたの子らの代を裏切ることになっていたであろう」。
・なぜ邪悪な者たちが栄え、罪なき者に災いが下るのかという疑問は詩人を苦しめた。詩人は聖所に行って祈り、そのことの意味を神に問うた。その時、神は詩人に邪悪な者たちの行く末を啓示して下さった。
-詩編73:16-20「私の目に労苦と映ることの意味を知りたいと思い計り、ついに私は神の聖所を訪れ、彼らの行く末を見分けた。あなたが滑りやすい道を彼らに対して備え、彼らを迷いに落とされるのを。彼らを一瞬のうちに荒廃に落とし、災難によって滅ぼし尽くされるのを。わが主よ、あなたが目覚め・・・彼らの偶像を侮られるのを」。
2.この世の不条理の中でどう生きるか
・人は比較の世界で生きている。自分の人生が困難に満ち、他者の人生が安泰であれば、私たちは平静でいられない。人が苦労の絶えない地上の出来ごとに目を奪われている時、彼の信仰は揺らぐ。しかし彼が天上に目を向け、この世は神の支配の中にあることを確認する時、不条理もまた一時的なものであることに気づく。彼の信仰は揺らいだが、信仰から離れなかった。神の支えの手が自分を支えていたことに彼は気づく。ヨブの悔い改めを想起させるような告白である。
-詩編73:21-23「私は心が騒ぎ、はらわたの裂ける思いがする。私は愚かで知識がなく、あなたに対して獣のようにふるまっていた。あなたが私の右の手を取ってくださるので、常に私は御もとに留まることができる」。
-ヨブ記42:5-6「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」。
・彼を取り巻く現実は変わっていない。悪人は栄え、彼は神の栄光に預かっていない。しかし心は平安である。彼はやがて死ぬだろう。しかし神は死を超えて慈しんで下さる。彼は「神を信じる」者から、「神を愛する者」に変えられて行った。
-詩編73:24-26「あなたは御計らいに従って私を導き、後には栄光のうちに私を取られるであろう。地上であなたを愛していなければ、天で誰が私を助けてくれようか。私の肉も私の心も朽ちるであろうが、神はとこしえに私の心の岩」。
・詩人は、「神から遠ざかる者」は、今どんなに繁栄と安泰を保っているように見えても実際には滅びの道にあるのであり、「神に近くあることを喜ぶ者」は、主の恵みの確かさによって生命の道を歩むことが出来ることを確信し、讃美する。
-詩編73:27-28「見よ、あなたを遠ざかる者は滅びる。御もとから迷い去る者をあなたは絶たれる。私は、神に近くあることを幸いとし、主なる神に避けどころを置く。私は御業をことごとく語り伝えよう」。
3.詩篇73編の黙想
・神は社会の不条理をいつの日にか糺され、泣いている人、虐げられている人は救済されることを信仰者は信じる。たとえ虐げられている人が戦乱の中で殺され、栄養不足で餓死したとしても、彼らは天上で迎え入れられている。この救いは見えないが確かにあるとヨハネ黙示録は語る。
-ヨハネ黙示録6:9-11「小羊が第五の封印を開いた時、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、私は祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか』。すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた」。
・神を無視して気ままな生涯を送り、生前に何の試練もなく栄え、死ぬ時も平安な人もいる。それはそれで良いのであり、羨むことでも妬むことでもない。たとえ、この世を栄華と満足の中に生涯を終わり、立派な葬儀が営まれた者も最後には神の審判の前に立たされる。そして彼が悪しき者であれば、滅びの穴に落とし入れられるであろう。地上の人生だけで生涯が決定されるのではない。私たちは生死を超える神の正しい審判に身を委ねれば良いのである。
-ヨブ記19:25「私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう」。
・「地上の人生だけで生涯が完結されるのではない」ことに気づいた信仰者が、マルティン・ルーサー・キング牧師である。1968年4月3日にテネシー州メンフィスで彼は申命記34章を説教した。彼は翌4月4日に暗殺されて39歳で死ぬ。以下はキングの最期の説教の終りの部分である。
-マルティン・ルーサー・キング・1968年説教から「一体これから何が起ころうとしているのか、私には分からない。ともかく、私たちの前途が多難であることは事実である。しかしそんなことは、今の私には問題ではない。なぜなら、私はすでに山の頂に登ってきたからである。従って、もう何も心配していない。私だって、ほかの人と同じように長生きしたいと思う。長寿にはそれなりの意味があるから。だが、もうそういうことも気にしていない。神の御心を全うしたいだけである。神は私に山に登ることをお許しになった。そこからは四方が見渡せた。私は約束の地も見た。私は皆さんと一緒にその地に到達することは出来ないかもしれない。しかし今夜、これだけは知っていただきたい。すなわち、私たちは一つの民として、その約束の地に至ることが出来る、ということである。だから、私は今夜、幸せである。もう何も不安なことはない。私はだれも恐れてはいない。この目で、主の再臨の栄光をみたのだから。」
・私たちは他者比較することなく、自分の置かれた場所で、精一杯咲けばよい。
-ラインホルド・ニーバの祈り「神が置いて下さった所で咲きなさい。仕方ないとあきらめてではなく、咲くのです。咲くということは、自分が幸せに生き、他人も幸せにすることです。咲くということは、周囲の人々に、あなたの笑顔が、私は幸せなのだということを示して生きることなのです。神がここに置いて下さった。それは素晴らしいことであり、ありがたいことだと、あなたのすべてが語っていることなのです。置かれている所で精一杯咲くと、それがいつしか花を美しくするのです。神が置いて下さった所で咲きなさい」。