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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年4月16日祈祷会(列王記下21章、マナセ王の背信と国家滅亡の預言)

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1.マナセの悪政

 

・ヒゼキヤは預言者イザヤに従い、神殿から偶像を撤去し、主は喜ばれ、アッシリアから国を護られた。しかし、子のマナセの時代になると、アッシリアの勢力が強まり、マナセは再び異教礼拝を取り入れる。

-列王記下21:1-4「マナセは十二歳で王となり、五十五年間エルサレムで王位にあった・・・ 彼は主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の忌むべき慣習に倣い、主の目に悪とされることを行った。彼は父ヒゼキヤが廃した聖なる高台を再建し、イスラエルの王アハブが行ったようにバアルの祭壇を築き、アシェラ像を造った」。

・マナセ王はアッシリアで行われていた異教礼拝を取り入れた。

-列王記下21:5-6「彼はまた、主の神殿の二つの庭に天の万象のための祭壇を築いた。彼は自分の子に火の中を通らせ、占いやまじないを行い、口寄せや霊媒を用いるなど、主の目に悪とされることを数々行って主の怒りを招いた」。

・マナセの行動は世界史の変化にそったものだった。マナセの時代、アッシリアの勢力はエジプトまで及び、ユダは実質上、属国とされた。親アッシリアの台頭の中で、イザヤたち独立派の預言者は迫害されていった。

-列王記下21:16「マナセは主の目に悪とされることをユダに行わせて、罪を犯させた。彼はその罪を犯したばかりでなく、罪のない者の血を非常に多く流し、その血でエルサレムを端から端まで満たした」。

・このマナセの時代に、預言者イザヤはのこぎりの刑で殺されたと言われている。

-旧約聖書外典・イザヤの殉教から「イスラエルの王ヒゼキヤの子マナセは、父の死後王位につくと、かねて預言者イザヤが預言していたとおりに、サタンに仕え、国民を堕落させるに至る。同僚の預言者たちと共にユダの荒野に逃れたイザヤは、捕えられては木鋸で身体を切断されるという殉教死をとげる」。

・ヘブル書の記事の中にその残影がある。

-ヘブル11:37-38「彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです」。

・「世は彼らにふさわしくなかった」、その迫害の中で、預言者たちは父祖からの伝承をまとめなおし、編集して行った。その結果出来上がった文書が申命記である。その申命記は神殿内に保管され、マナセの孫ヨシヤ王時代に発見され、ヨシヤはその書の指示に従い、「申命記革命」と言われる改革を行った。異教礼拝の廃止を預言者たちは申命記に書き込んでいる。イザヤたちの努力が預言者の死後に報われた。

-申命記18:10-11「あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない」。

 

2.国が滅亡するとの預言

 

・このマナセの悪政に対して、主はユダ王国を滅ぼすと預言された。

-列王記下21:11-15「ユダの王マナセはこれらの忌むべき事を行い、かつてアモリ人の行ったすべての事より、更に悪い事を行い、その偶像によってユダにまで罪を犯させた。それゆえ、イスラエルの神、主はこう言われる。見よ、私はエルサレムとユダに災いをもたらす・・・私はサマリアに使った測り縄とアハブの家に使った下げ振りをエルサレムに用いる・・・私はエルサレムをぬぐい去る。私はわが嗣業の残りの者を見捨て、敵の手に渡す。彼らはそのすべての敵の餌食となり、略奪の的となる」。

・測り縄は測量のための紐であり、下げ振りは錘、いずれもエルサレム城壁の破壊を示す。エルサレム崩壊を嘆く哀歌は、主が測り縄を用いて、エルサレムを滅ぼされたと嘆く。

-哀歌2:8-9「主はおとめシオンの城壁を滅ぼそうと定め、打ち倒すべき所を測り縄ではかり、御手をひるがえされない。城壁も砦も共に嘆き、共に喪に服す。城門はことごとく地に倒れ、かんぬきは砕けた。王と君侯は異国の民の中にあり、律法を教える者は失われ、預言者は主からの幻による託宣をもはや見いだすことができない」。

・主はマナセのゆえに国を滅ぼすと言われたが、国の滅亡は王の死後50年後である。何故マナセではなく、その子孫が撃たれるのか。歴代誌はマナセが苦難の中で主の許しを請い、主が滅びを延ばされたと伝える。

-歴代誌下33:10-13「主は、アッシリアの王の将軍たちに彼らを攻めさせられた。彼らはマナセを鉤で捕らえ、一対の青銅の足枷につないでバビロンに引いて行った。彼は苦悩の中で自分の神、主に願い、先祖の神の前に深くへりくだり、祈り求めた。神はその祈りを聞き入れ、願いをかなえられて、再び彼をエルサレムの自分の王国に戻された。こうしてマナセは主が神であることを知った」。

・マナセの死後、アモンを経てヨシヤ王が王位につく。ヨシヤは主の前に正しく生きたが、主は王国を滅ぼすとの決断を変えられなかった。その後の歴史を見ると、ユダは滅び、民はバビロンに捕囚となった。この捕囚の中で悔い改めた民が創世記や出エジプト記をまとめていく。捕囚により民は清められた。滅びを通して主はユダを救われた。

-列王記下23:24-27「ヨシヤはまた口寄せ、霊媒、テラフィム、偶像、ユダの地とエルサレムに見られる、憎むべきものを一掃した・・・彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった。しかし、マナセの引き起こした主のすべての憤りのために、主はユダに向かって燃え上がった激しい怒りの炎を収めようとなさらなかった。 主は言われた『私はイスラエルを退けたようにユダも私の前から退け、私が選んだこの都エルサレムも、私の名を置くと言ったこの神殿も私は忌み嫌う』」。

 

3.マナセ王をどう評価するか

 

・マナセは12歳で南王国ユダの第14代の王となり、55年間在位した(列王記下 21:1)。彼の生涯は「列王記下」21章1-18節、「歴代誌下」33章1-20節に記されている。「列王記」は彼を、バアル崇拝、アシタロテ崇拝を再興し、国民を苦しめる不敬虔で邪悪な王として描き、ユダ王国の滅亡の直接的な原因はマナセの罪であったとしている。また、預言者イザヤはマナセによって、のこぎりで切り裂かれて殺害されたと言われる。

・考古学的に見ても、マナセの政策はアッシリアとの朝貢関係が原則となっており、父ヒゼキヤが反アッシリア政策を採り独立を保とうとしたのとは対照的であった。アッシリア側の碑文にも、マナセがエサルハドンに貢ぎ物を納めた者の1人として記録されている。宗主国の神を崇めることは、当時のオリエントでの外交関係では隷属の証しとしてよく見られたことであり、マナセのバアルやアシタロテ信仰への傾倒と、ヒゼキヤのユダヤ信仰への傾倒は、隷属と自主という世俗的な外交姿勢と対応が見られる。

・「列王記」とは対照的に、「歴代誌」はマナセがバビロンに連行された際に改心した後、偶像や悪事を捨てて良い政治を行ったと記している。後者の見方から旧約聖書外典の『マナセの祈り』が著された。歴史は多面的に見る必要がある。アッシリアの支配下でアッシリアの宗教を取り入れることもやむを得ない面もあった。それは現代の日本がアメリカの核の傘による国土防衛を決意し、その結果アメリカ軍の国内駐留を容認しているのと同じである。

・聖書は時代背景の中で見るべきである。マナセの孫で宗教改革を実行したヨシヤ王は、列王紀記者から高く評価されている(列王記下22:2)。しかし歴史的に見れば、そのことを可能にする時代の流れがあった。ヨシヤの時代、アッシリア帝国は次第に衰退し、それに伴って独立したバビロニア人とメディア人とスキタイ人とがメソポタミアに侵略し始めた。ヨシヤは、この機会を捉えてアッシリアに抵抗を始めた。彼はアッシリアの国家祭儀をエルサレムの聖所から取り除いて、アッシリアとの家臣関係を解消した。そして朝貢も中止したが、アッシリアにはそれに介入する力はなかった。表面的な事象を見て、「マナセは悪王で、ヨシヤは善王であった」との評価を下すべきではない。

・その後の歴史を概観する。

-ヨシヤはユダ王国内での改革にとどまらず、かつてのダビデ王国の支配を回復するという野心に駆り立てられ、当時アッシリア帝国の一つの州となっていた北イスラエルのベテルやサマリアにまで踏み行って、支配下に置いた。しかし、前609年、瀕死のアッシリアを助けようとパレスチナを通過していたエジプト軍を迎え撃ったヨシヤは、逆にパロ・ネコに撃ち破られ、命を落とす。これによって、かつてのイスラエル王国を回復しようというヨシヤの野望は挫折し、ユダ王国は、エジプトの支配下に置かれるようになった。王に即位したヨシヤの子のエホアハズは、ネコによって退位させられ、同じヨシヤの子のエリアキムが王に即けられ、名をエホヤキムと改名させられたのである。この改名は、パロのユダに対する統治権をあらわすものであった。事実エホヤキムは、国民に重税を課してネコに朝貢しなければならなかった。

-しかし前605年のカルケミシの戦いでネブカデネザルがネコに勝利してからは、シリア・パレスチナは新バビロニア帝国の支配下となり、ユダも属国として、バビロニアに朝貢する。その後、エホヤキムはバビロニアの支配から免れようとして朝貢を中止した。ネブカデネザルは直ちに軍を送って、エルサレムを包囲した。この包囲の最中にエホヤキムは死に、その子エホヤキンが王位に即くが、エルサレムは侵入され、若きエホヤキンや上層階級の者が捕囚としてバビロニアに連れて行かれた(第一回捕囚、前598年)。歴史の中で人間の果たす役割は何なのかと考えさせる流れである。

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