1.私の霊を御手に委ねます
・31編の詩人は苦難の中で歌う「主よ、御もとに身を寄せます。助けてください」。
-詩編31:2「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、恵みの御業によって私を助けてください」。
・詩人は敵の陰謀によって罠にかけられている。その罠から救い出して下さいと神にひたすらに求める。
-詩篇31:3-6「あなたの耳を私に傾け、急いで私を救い出してください。砦の岩、城塞となってお救いください。あなたは私の大岩、私の砦。御名にふさわしく、私を守り導き、隠された網に落ちた私を引き出してください。あなたは私の砦。まことの神、主よ、御手に私の霊をゆだねます。私を贖ってください」。
・6節の「主よ、御手に私の霊を委ねます」は、ルカがイエスの最後の言葉として引用して、有名になった。
-ルカ23:44-46「全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた・・・・イエスは大声で叫ばれた『父よ、私の霊を御手にゆだねます』。こう言って息を引き取られた」。
・またステファノもこの言葉を最後に絶命したと言われている。
--使徒7:59-60「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、私の霊をお受けください』と言った。それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた」。
・詩人は自分の苦しみを繰り返し神に訴える。信仰者は、誰も聞いてくれなくとも、神は聞いてくださると信じるからだ。
-詩編31:10-11「主よ、憐れんでください、私は苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも、苦悩のゆえに衰えていきます。命は嘆きのうちに、年月は呻きのうちに尽きていきます。罪のゆえに力はうせ、骨は衰えていきます」。
・詩人の置かれている状況は厳しい。「人はみな自分を嘲り、親しい人も避けて通る」、「人は私を死者のように葬り去る」、まるでヨブのようだ。らい病のように、人から忌み嫌われる病気になったのかもしれない。
-詩編31:12-14「私の敵は皆、私を嘲り、隣人も、激しく嘲ります。親しい人々は私を見て恐れを抱き、外で会えば避けて通ります。人の心は私を死者のように葬り去り、壊れた器と見なします。ひそかな声が周囲に聞こえ、脅かす者が取り囲んでいます。人々が私に対して陰謀をめぐらし、命を奪おうとたくらんでいます」。
・らい病=へブル語「ツァラット」、ギリシャ語「レプラ」、「神に打たれた」との意味を持つ、日本では「天刑病」とも呼ばれた。彼らは町に入ることを許されず、「汚れた者」として社会から排斥された。
-レビ記13:45-46「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『私は汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」。
2.私の時はあなたの御手の中にあります
・社会から排斥される、人から受け入れられないほど、つらいことはない。その祈りの中で、この苦しみもまた「神の御手の中にある」ことを、詩人は知る。詩人は歌う「私の時はあなたの御手の中にあります」と。どうかふさわしい時が来れば私を助けてください。
-詩編31:15-16「主よ、私はなお、あなたに信頼し、『あなたこそ私の神』と申します。私にふさわしい時に、御手をもって、追い迫る者、敵の手から助け出してください」。
・人が見捨てても神は見捨てられない。神は私を守ってくださった。彼は感謝の賛美を歌う。
-詩篇31:20-21「御恵みはいかに豊かなことでしょう。あなたを畏れる人のためにそれを蓄え、人の子らの目の前であなたに身を寄せる人に、お与えになります。御もとに彼らをかくまって、人間の謀から守ってくださいます。仮庵の中に隠し、争いを挑む舌を免れさせてくださいます」。
・最後に詩人は、「主は必ず助けて下さる。それを信じよ」と人々に呼びかけて、詩を閉じる。
-詩編31:22-25「主をたたえよ。主は驚くべき慈しみの御業を、私が苦境にあった時、示してくださいました。恐怖に襲われて、私は言いました『御目の前から断たれた』と。それでもなお、あなたに向かう私の叫びを、嘆き祈る私の声を、あなたは聞いてくださいました。主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り、傲慢な者には厳しく報いられる。雄々しくあれ、心を強くせよ、主を待ち望む人はすべて」。
3.詩篇31編の黙想~人生の荒波の中で主に信頼する(2009年6月21日説教マルコ4:35-41から)
・詩篇31編は絶体絶命の中で、それでも主に信頼し、救われた救済体験をのべる。それはガリラヤ湖の湖上で嵐に巻き込まれた弟子たちの体験にも通じる。その時の情景を振り返る」
「イエスはガリラヤ湖のほとりで人々を教えておられましたが、夕方になりましたので、弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われました。弟子たちは舟を出して、漕ぎだし始めました。イエスは疲れのためか、すぐに深い眠りに落ちられました。舟を漕ぎ出してまもなく、突然強い風が吹き始め、波は荒れ、舟は木の葉のように舞い、沈みそうになります。ペテロやアンデレはガリラヤの漁師でしたので、最初は自分たちで何とか出来ると思い、努力しましたが、この嵐は彼らの手に負えないほどのもので、舟は沈みそうになります。弟子たちはイエスを揺り動かし、訴えます「先生、起きてください。私たちがおぼれてもかまわないのですか」。イエスは起き上がり、風を叱り、湖に黙れと言われました。すると、風も波もおさまり、静かになりました。イエスは弟子たちを叱られました「何故怖がるのか、まだ信じないのか」。
・「この物語を、初代教会の人びとは自分たちへの励ましと受け取りました。マルコ福音書は紀元70年ごろ、ローマで書かれたと言われています。復活のイエスに出会って励まされた弟子たちは、「イエスは神の子であった。イエスの贖罪死によって私たちの罪は赦され、イエスの復活によって永遠の命が与えられた」と福音の宣教を始めました。その結果、ローマ帝国のあちこちに教会が生まれ、首都ローマにも教会が生まれました。しかし、ユダヤ教の保護をなくしたキリスト教会は、ローマ帝国内において邪教とされ、迫害され、紀元64年の大迫害時には、教会の柱だったペテロやパウロたちが殺されていきます」。
・「マルコが福音書を書いた当時のローマ教会は、迫害の嵐の中で揺れ動いていたのです。人々はキリスト者である故に嘲笑され、社会から締め出され、捕らえられて処刑されていきます。教会の信徒たちは神に訴えます「あなたはペテロやパウロの死に対して何もしてくれませんでした。今度は私たちが捕らえられて殺されるかもしれません。私たちが死んでもかまわないのですか」。ガリラヤ湖の弟子たちは「私たちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えましたが、この「おぼれる=アポルーマイ」の本来の意味は「滅ぼす、殺す」の意味です。弟子たちは、「私たちが滅んでも平気なのですか」、「私たちが殺されてもかまわないのですか」と叫んでいます。マルコは湖上の嵐の伝承の中に、「主よ、私たちを助けてください。私たちは滅ぼされそうです。何故起きてくれないのですか」という教会の人々の叫びを挿入して編集しているのです。そして慌てふためく教会の人々に、マルコはイエスの使信を伝えます「何故怖がるのか、まだ信じないのか。天地は全て神の支配の下にある。ユダヤもローマも全て神が支配されておられる。何故神の支配を信じられないのか、何故神に委ねることが出来ないのか」」。
・「私たちは、順調な時には、神が共にいてくださるという事実を、感謝をもって承認します。しかし、危急存亡の時には慌てふためきます。神がおられるという事実が何の意味もないように思えます。人生には必ず嵐があります。信仰者であっても末期の癌であると告知されれば慌てふためきます。教会内で意見の対立が起こり、多くの信徒が去っていった時、残された人は言います「主よ、あなたがこの教会を建てて下さったのに、何故今、この教会を壊そうとされるのですか」。私たちは救いを求めて叫びますが、目に見える助けがすぐに来ない時、私たちは信仰を持ち続けることが難しくなります」。
・「このマルコの物語は、信仰が揺らいだ時には、イエスが起きられるまで、叫び続けよと教えます。イエスは眠っておられる、しかし、求めれば起きて下さり、「黙れ、静まれ」と嵐を静めて下さる。その後で、私たちは叱られるかもしれない。しかし、イエスの叱りを通して、私たちは成長していきます。イエスの弟子たちは、主に従う者として、信仰と信頼にあふれて舟に乗り込みましたが、一旦嵐にあうと、今まで信じていたものはどこかに飛び去り、慌てふためきます。それが人間なのです。苦難に会うと人は信仰をなくしてしまう存在なのです。今この時、神の国の喜ばしい知らせなど、弟子たちの頭からすっかり消えうせています。彼らの頭にあるのは、「おぼれる、死ぬ」、その恐怖だけです」。
・「福音は聞いただけでは人を変える力を持ちません。福音を生きるようになって、人は変わり始めます。福音を生きる、信仰を持つことの第一歩は、自分が無信仰である事を知ることから始まります。私たちは苦難を通して、自分の真実の姿を示され、自分に頼る事が出来ない事を知らされ、神を求め始めます。その時始めて、神は応えて下さいます。病気、苦難、災害、その他全ての不幸には意味があります。神はそれぞれの苦難を通して、私たちを導かれます。「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」(ヨブ記36:15)。苦難こそ、祝福への道なのです」。