江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年12月24日祈祷会(詩編32編、罪を赦された者の幸い)

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1.罪の告白と赦し

 

・詩編32編は罪を犯して苦しみ、罪を主に告白して赦しを受けた詩人の感謝の歌である。古来より、七つの「悔い改めの詩」として知られ、アウグスチヌスの愛唱歌であったという。

-詩編32:1-2「いかに幸いなことでしょう、背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう、主に咎を数えられず、心に欺きのない人は」。

・ここで罪の三つの形態(背き、罪、咎)が指摘される。背きは赦され、罪は覆われ、咎は数えられない。パウロは罪の赦しとは人の行いではなく(善行を積む、禁欲を行う等)、神の一方的な恵みであることの論拠としてこの詩編を引用する。

-ローマ4:6-8「ダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。『不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである』」。

・赦されない罪は重くのしかかり、良心の苦悶にさいなまれる日々であったと詩人は告白する。

-詩編32:3-4「私は黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜も私の上に重く、私の力は夏の日照りにあって衰え果てました」。

・彼は神の前に平伏し、おのれの罪を神の前に告白した。その時に救いが与えられた。彼は赦しの恵みを知り、喜び、感謝する。

-詩編32:5「私は罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。私は言いました『主に私の背きを告白しよう』と。そのとき、あなたは私の罪と過ちを赦してくださいました」。

・罪は告白することによって赦される。レビ記5:5は記す「罪を犯した者はまずその罪を告白し、その後で罪を清めるための供犠を捧げよ」と。イエスが山上の説教で教えられたのも同じで「罪の告白が赦しに先行する」。

-マタイ5:23-24「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」。

 

2.赦しから解放へ

 

・罪の赦しによる心の平安こそ、生きる力となる。詩人は罪を告白したことによって与えられた平安を喜ぶ。

-詩編32:6-7「あなたの慈しみに生きる人は皆、あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れる時にも、その人に及ぶことは決してありません。あなたは私の隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって私を囲んでくださる方」。

・罪の解決は人間の側からの罪の告白で始まる。告白とは神の前におのれの罪をさらけ出し、神の前に魂を裸にすることだ。ヨブの救いもそのようにしてなされた。

-ヨブ記42:5-6「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」。

・罪は赦されても償いは必要だ。殺人を犯した者の罪が赦されても、彼は服役しなければならない。ヨブは平安をいただく前に長い、長い苦闘を経ている。イスラエルもその罪にゆえに、50年もの長い苦役の時を(捕囚)を必要とした。

-イザヤ40:1-2「慰めよ、私の民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けたと」。

・自らの罪を赦された詩人は、聴衆に、共に賛美の歌を歌うように勧める。動物は罪から解放される喜びを知らぬゆえに、轡や手綱を必要とする。しかし、新しく生まれた者はもはや外部からの統制を必要としない。

-詩編32:8-9「私はあなたを目覚めさせ、行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。分別のない馬やらばのようにふるまうな。それは轡と手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな」。

・罪の赦しは、人生を一転させる。それは「新生」と呼ばれる。赦されたものは新生する。

-詩編32:10-11「神に逆らう者は悩みが多く、主に信頼する者は慈しみに囲まれる。神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ」。

・新生した者はもう他者の罪を数えない。自分が赦されたことを知る者はもう人に怒ることができない。人を愛するとは、「相手の罪を数え上げないことだ」とイエスは教えられる。

-ルカ7:47-48「『この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない』。そして、イエスは女に、『あなたの罪は赦された』と言われた」。

・しかし、「赦され、新生した者」もまた、生きている限りは過ちを犯し続ける。だからこそ私たちは毎主日の礼拝なしには生きていけない。信仰者は「義人にして同時に罪人」(ルター)なのである。「神の求める生贄は打ち砕かれた霊」なのである。

-詩篇51:18-19「もし生贄があなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、私はそれをささげます。しかし、神の求める生贄は打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」。

 

3.ドストエフスキー「罪と罰」による罪の告白と赦し

 

・良心の罪責に苦しめられるラスコリニコフ

-貧しい学生ラスコリニコフは、才能のある若者が極貧にあえぎ、将来性もない金貸しの老婆が沢山のお金を持っているのは不合理であるという思い上がった気持ちから、老婆を殺して金を奪う。しかし、良心に責められ、盗んだお金を使うことも出来ないでいる内に、娼婦ソーニャと出会う。

・罪を告白し、自首するラスコリニコフ

-ソーニャの部屋で、ラスコリニコフはヨハネ11章「ラザロの復活」の物語を読んで貰う。それを聞いたラスコリニコフは、「どのような人の命も人が勝手に奪うことはできない。命は神のものである」ことを知り、自分の犯した罪をソーニャに打ち明け、自首し、シベリヤの流刑地に8年の刑で送られる。ラスコリニコフが殺人の罪を衆人の前で告白し、大地に接吻した時に、罪の赦しが始まった。

・ラスコリニコフの復活

-ラスコリニコフは、シベリヤの流刑地に送られ、ソーニャはシベリヤまで彼について行く。地の果てのような所で数年を過ごした復活祭過ぎのある朝、蒼白くやせた二人は、川のほとりでものも言わずに腰を下ろしていた。突然、ラスコリニコフは泣いてソーニャの膝を抱きしめる。ドストエフスキーは書く「二人の目には涙が浮かんでいた・・・愛が彼らを復活させたのである」。安価な恩寵は人を再生させることはできない。罪を赦された人は償いを通して清められていく。ラスコリニコフが最終的な回心に至ったのは、服役後数年経ってからであった。

 

4.罪は神に告白するのか、人に告白するのか

 

・三浦綾子「われ弱ければ・矢島楫子伝」を書いた。

-「矢島楫子は女子学院の初代院長を務め、日本キリスト教婦人矯風会を設立した著名な教育者であるが、過去において「幼いわが子を置いて家を出た」、「妻子ある人の子を産む」という過ちを犯したとして、甥の徳富蘇峰は、楫子の洗礼に際して、「過去の過ちを告白すべきでないか」との手紙を送っている。しかし、楫子は幼い妙子のことを考え、死ぬまで公表することはなかった。楫子の死後、事業を後継した久布白落実は、楫子没後2年目に楫子の告白・懺悔の文を公表した。それには若い頃書生との間で妙子を宿した過ち、その妙子が母同様の不行跡をなしたことを告白。「婦人矯風会は強きが故に設立したのではなく、弱きが故に、実に弱気が故に人間の行路を少しでも誘惑を減じ、人世を歩み安くするために建てたものです」とあった。

・罪の告白は人の前でなすべきか、神の前でなすべきかについては意見が分かれる。しかし詩篇51編を見ると、罪の告白は神の前に為されれば、十分ではないかと思える。詩篇51編は罪の悔い改めと赦しを求める詩で、人々はダビデ王の犯した罪とその悔い改めの祈りとして、この詩を見て、それにふさわしい表題を付けて唱和した。-詩篇51:1-2「ダビデの詩。ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」。

・ダビデは自己の罪を告白し、その赦しを神に乞う。彼は神に背き、罪を犯した。その結果平安は彼から去った。罪は赦されなければ消えない。故に彼は神の慈しみと憐れみによって、罪を洗い清めて下さるように祈る。-詩篇51:3-4「神よ、私を憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。私の咎をことごとく洗い、罪から清めてください」。

・罪とは具体的には、人に犯した罪である。ダビデはウリヤの妻を横取りし、ウリヤを謀殺する。しかし、その罪は突き詰めると神に逆らう行為である。だからダビデは「神に背いた」、「神の前に罪を犯した」と告白する。そしてその罪が生まれ落ちた時からあった、原罪であることを告白する。

-詩篇51:5-6「あなたに背いたことを私は知っています。私の罪は常に私の前に置かれています。あなたに、あなたのみに私は罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません」。

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