1.オムリ王朝からイエフ王朝へ
・イエフはイスラエル軍の将軍として、アラム王ハザエルと戦っていた。アハブの子ヨラム王は戦闘で傷つき、イズレエルで療養していた。エリシャはイエフに油を注ぐよう、若い預言者に命じる。
-列王記下9:1-3「イエフに会いなさい。あなたは入って彼をその仲間の間から立たせ、奥の部屋に連れて行き、油の壺を取って彼の頭に注いで言いなさい。主はこう言われる。私はあなたに油を注ぎ、あなたをイスラエルの王とすると』」。
・イエフはアハブの家を滅ぼすために、預言者に油注がれて(マーシャ)、王(メシア)になる。メシアの本来の意味は「油注がれた者」である。
-列王記下9:6-10「私はあなたに油を注ぎ、あなたを主の民イスラエルの王とする。あなたはあなたの主君アハブの家を撃たねばならない。こうして私はイゼベルの手にかかった私の僕たち、預言者たちの血、すべての主の僕たちの血の復讐をする」。
・軍は直ちにイエフを王と認め、イエフは軍勢を率いて、イズレエルにいるヨラム王を討つため進軍した。
-列王記下9:14-16「イエフはヨラムに対して謀反を起こした・・・イエフは戦車に乗ってイズレエルに向かった」。
・イズレエルで、イエフはヨラム王を矢で射殺した。列王記記者はそれを預言の成就として記録する。
-列王記下9:24-26「イエフは手に弓を取り、ヨラムの腕と腕の間を射た。矢は心臓を射貫き、彼は戦車の中に崩れ落ちた。イエフは侍従ビドカルに言った『彼をイズレエル人ナボトの所有地の畑に運んで投げ捨てよ。私がお前と共に馬に乗って彼の父アハブに従って行ったとき、主がこの託宣を授けられたことを思い起こせ。私は昨日ナボトの血とその子らの血を確かに見たと主は言われた。また、私はこの所有地であなたに報復すると主は言われた。今、主の言葉どおり、彼をその所有地に運んで投げ捨てよ』」。
・ヨラムの母であり、アハブの妻であったイゼベルも預言どおりに殺される。
-列王記下9:32-37「彼は・・・『その女を突き落とせ』と言った。彼らがイゼベルを突き落としたので、その血は壁や馬に飛び散り、馬が彼女を踏みつけた。・・・人々が葬ろうとして行くと、頭蓋骨と両足、両手首しかなかった。彼らが帰って、そのことを知らせると、イエフは言った『これは主の言葉のとおりだ。主はその僕ティシュベ人エリヤによってこう言われた。イゼベルの肉は、イズレエルの所有地で犬に食われ、イゼベルの遺体はイズレエルの所有地で畑の面にまかれた肥やしのようになり、これがイゼベルだとはだれも言えなくなる』」
2.何故主はアハブを退け、イエフを立てられたのか
・物語の背景には、ナボトのぶどう畑に見られる、神の戒めをアハブ王が破ったことにある。アハブ王は北部イズレエルに離宮を持っており、隣にはナボトのぶどう園があった。アハブ王はナボトに土地を売るよう求めるが、ナボトはこれを拒否する。アハブの妻イゼベルはイズレエルの長老に指示し、「ナボトが神と王を呪った」として、「石で打ち殺せ」と命じ、ナボトを処刑し、アハブはナボトのぶどう園を手に入れた。この不正に神は怒られアハブとその王朝を滅ぼすことを決意される。
-列王記上21:17-19「主の言葉がティシュベ人エリヤに臨んだ『直ちに下って行き、サマリアに住むイスラエルの王アハブに会え。彼はナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って来て、そこにいる。彼に告げよ“主はこう言われる。あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにしようとするのか”。また彼に告げよ“主はこう言われる。犬の群れがナボトの血をなめたその場所で、あなたの血を犬の群れがなめることになる”』」。
・列王記は国の滅亡の原因を探るために書かれた歴史書であり、各王の評価は「神の戒めにどれだけ忠実であったか」の視点から記述されている。列王記記者はオムリ王朝の滅亡をアハブの罪の故と解釈し、このような記述に至った。しかし実際は歴史上の権力闘争であり、神は歴史には介入をされない。
-レヴィナス「人間が人間に対して行った罪の償いを神に求めてはならない。社会的正義の実現は人間の仕事である・・・成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるという形をとるはずである。」(レヴィナス「困難な自由、ユダヤ教についての試論」)。
・この後、イエフはアハブの家系につながるものをすべて殺し、バアルの信奉者たちもすべて殺した。イエフ革命といわれる出来事である。しかし、イエフは必ずしも、有能な王ではなかった。
-列王記下10:28-29「このようにして、イエフはイスラエルからバアルを滅ぼし去った。ただ、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪からは離れず、ベテルとダンにある金の子牛を退けなかった」。
・それにもかかわらず、イエフがアハブの家を滅ぼすための器として用いられる。
-歴代誌下22:7「イエフは、アハブの家を絶つために主が油を注がれた者である」。
・偶像礼拝者は皆殺しにすべきなのだろうか。イエスの言われた「剣をとらない平和」は、旧約にはないのだろうか。しかし、イザヤは剣を取る愚かさを伝える。
-イザヤ2:4「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。
・預言者ホセアを通して主は、このイエフの暴力革命を批判される。イエフは必要以上の暴力を用いて自分の野心を遂げた。主は決してイエフの行為を容認されていない。
-ホセア1:4-5「主は彼に言われた『その子をイズレエルと名付けよ。間もなく、私はイエフの王家に、イズレエルにおける流血の罰を下し、イスラエルの家におけるその支配を絶つ。その日が来ると、イズレエルの平野で、私はイスラエルの弓を折る』」。
3.旧約聖書における聖絶をどのように理解するか。
・イエフはアハブの家系につながるものをすべて殺し、バアルの信奉者たちもすべて殺した。聖絶である。聖絶はヘーレムあるいはハーラムの訳語として、レビ記、申命記、ヨシュア記などに用いられる。申命記7章には、7つの異邦の民の聖絶が命じられている。
-申命記7:1-4「あなたが行って所有する土地に、あなたの神、主があなたを導き入れ、多くの民、すなわちあなたにまさる数と力を持つ七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人をあなたの前から追い払い・・・あなたが彼らを撃つ時は、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない・・・彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。あなたの息子を引き離して私に背かせ、彼らはついに他の神々に仕えるようになり、主の怒りがあなたたちに対して燃え、主はあなたを速やかに滅ぼされるからである」。
・申命記の記述を注意深く読めば、ここにおいては「滅ぼし尽す」ことが主目的ではなく、「異教徒と交わって信仰をゆがめる」ことの禁止であることがわかる。「聖絶」は史実ではなく、「神学的表現」である。聖絶という慣習はイスラエルのみならずモアブやアッシリアのような近隣諸国にも共通して見られた宗教儀礼であったが、実際にこの規定が適用されたことは現実問題としてかなり稀なことであった。敵対する異民族を聖絶の捧げ物とした場合でも、相手を滅ぼしてもイスラエルの民には物質的には何の利益にもならないため、当然ながら違反者が続出した。また、一民族を全て根絶やしにすることは現実問題としても無理であった。
・それに対して、バビロン捕囚以後に聖書を編纂した歴史家たちは(申命記記者)、「このように聖絶が不徹底であったため、バアル信仰がイスラエルの中に蔓延り、神の怒りを招き、自分たちは異民族に支配されなければならなかったのだ」という反省及び歴史解釈した。現代の歴史学では、「聖書に書かれた虐殺の記述は歴史を正しく伝えたものではなく、後代のバビロン捕囚前後の時代にイスラエル中心主義の影響で書かれた」ものとされる。
・ユダヤ人歴史家も聖絶についての理解は分かれる。マルティン・ブーバーは「神がこのような命令をしたはずがないか、あるいはイスラエルの神の命令が誤っていた」と解釈する。彼はある時「サムエル記上15章」の記述について問われて、「私はそれを神のお告げであるとは信じない。私はサムエルが神の言葉を聞き間違ったのだと信じる」と答えたと晩年の自伝的な著書の中で記している。