2020年1月23日祈祷会(列王記下6章、苦難の中で霊の目が開かれる)

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1.敵軍を囲む主の軍勢を見る

 

・アラムとイスラエルが戦争していた時、アラム軍は情報がイスラエル軍に漏れていることを知った。

-列王記下6:8-10「アラムの王がイスラエルと戦っていた時のことである。王は家臣を集めて協議し、「これこれのところに陣を張ろう」と言った。しかし、神の人はイスラエルの王のもとに人を遣わし、「その場所を通らないように注意せよ。アラム軍がそこに下って来ている」と言わせた。イスラエルの王は神の人が知らせたところに人を送った。エリシャが警告したので、王はそこを警戒するようになった。これは一度や二度のことではなかった」。

・アラムの王はその原因が預言者エリシャにあることを知って、エリシャを捕らえるために、軍勢を送る。-列王記下6:11-14「アラムの王の心はこの事によって荒れ狂い、家臣たちを呼んで『我々の中のだれがイスラエルの王と通じているのか、私に告げなさい』と言った。家臣の一人が答えた『だれも通じていません。わが主君、王よ、イスラエルには預言者エリシャがいて、あなたが寝室で話す言葉までイスラエルの王に知らせているのです』・・・王に『彼はドタンにいる』という知らせがもたらされた。王は、軍馬、戦車、それに大軍をそこに差し向けた。彼らは夜中に到着し、その町を包囲した」。

・エリシャの召使は町を囲む軍勢を見て狼狽し、主人に伝える。エリシャは彼の霊の目を開いて、敵に倍する主の軍勢が自分たちを守っていることを見せる。

-列王記下6:15-17「神の人の召使が朝早く起きて外に出てみると、軍馬や戦車を持った軍隊が町を包囲していた。従者は言った『御主人よ、どうすればいいのですか』。するとエリシャは『恐れてはならない。私たちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い』と言って、主に祈り『主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください』と願った。主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た」。

・人は現実の延長線上にしか、将来を見ることは出来ない。しかし霊の目が開かれた時、私たちは神が共におられるのを見る。砂漠に追放され、渇きで死に掛けたハガルの目を開いて、井戸のありかを示してくださったのも主であった。

-創世記21:14-19「ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。革袋の水が無くなると・・・『私は子供が死ぬのを見るのは忍びない』と言って・・・子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた・・・ 神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた」。

・エリシャは「恐れてはならない。私たちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言った。言葉どおり、主はアラムの軍隊の目をくらませ、イスラエルを救われた。

-列王記下6:18「アラム軍が攻め下って来たので、エリシャが主に祈って、『この異邦の民を打って目をくらましてください』と言うと、主はエリシャの言葉どおり彼らを打って目をくらまされた」。

 

2.包囲と飢餓の中で主を信じる

 

・その後、アラム軍は再び、サマリアを攻め、町は包囲され、城内では食物が極度に不足し、普段は食べない、驢馬の頭や燃料の鳩の糞さえも高価で取引されるようになった。

-列王記下6:24-25「その後、アラムの王ベン・ハダドは全軍を召集し、攻め上って来て、サマリアを包囲した。サマリアは大飢饉に見舞われていたが、それに包囲が加わって、驢馬の頭一つが銀八十シェケル、鳩の糞四分の一カブが五シェケルで売られるようになった」。

・住民の中には子どもを殺して食べる者さえ出た。

-列王記下6:26-29「イスラエルの王が城壁の上を通って行くと、一人の女が彼に向かって叫んだ。『わが主君、王よ、救ってください』・・・王が「何があったのか」と尋ねると、彼女は言った。「この女が私に、『あなたの子供をください。今日その子を食べ、明日は私の子供を食べましょう』と言うので、私たちは私の子供を煮て食べました。しかしその翌日、私がこの女に、『あなたの子供をください。その子を食べましょう』と言いますと、この女は自分の子供を隠してしまったのです」。

・後にエルサレムがバビロニヤに包囲された時も、飢餓の中で、自分の子どもを煮て食べる事例が報告されている。極限状況の中では、人間性も失われていく。

-哀歌4:9-10「剣に貫かれて死んだ者は、飢えに貫かれた者より幸いだ・・・憐れみ深い女の手が自分の子供を煮炊きした。私の民の娘が打ち砕かれた日、それを自分の食糧としたのだ」。

・王は神を呪い、神の代理人である預言者エリシャを殺そうとする。

-列王記下6:30-31「王はこの女の話を聞いて、衣を裂いた。王は城壁の上を通っていたので、それが民に見えた。王の肌着は粗布であった。王は言った『シャファトの子エリシャの首が今日も彼についているなら、神が幾重にも私を罰してくださるように』」。

・王にエリシャは伝える「主が動かれる。主を信じよ」と。しかし王もその副官も信じることが出来ない。

-列王記下7:1-2「エリシャは言った『主の言葉を聞きなさい。主はこう言われる。明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られる』。王の介添えをしていた侍従は神の人に答えた『主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう』」。

・地上の出来事だけが、目の前の苦しみだけが、真実ではなく、この地上は天に続き、天では救いの出来事が進行している。私たちはそれを見る。イエスがナタナエルに言われたことは、そういう意味だ。

-ヨハネ1:50-51「イエスは答えて言われた『いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる』。更に言われた『はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる』」。

 

3.列王記下6章の黙想(苦難の中で主に叫ぶ)

 

・1939年ドイツ軍はポーランドに侵攻し、ワルシャワ市内にいたユダヤ人50万人はユダヤ人居住区に押し込められ、周囲と隔離された。最初はユダヤ人の隔離と強制労働が中心だったが、やがて民族絶滅に方針が変わり、ゲットーから大勢の住人が絶滅収容所に移送されて行く。「このまま死を待つよりは戦おう」としてゲットーのユダヤ人たちは1943年叛乱を企てるが、ドイツ軍に制圧され、住民は次々に殺されていく。ヨセル・ラコーバーは、妻と子どもたちは既に死に、彼だけが残された。彼は戦火の中で手記を書き、それをガラス瓶の中に入れ、レンガ石の裏に隠す。戦後、その手記が発見され、出版された。その中で彼は書く「神は彼の顔を世界から隠した。彼は私たちを見捨てた。神はもう私たちが信じることができないようなあらゆることを為された。しかし私は神を信じる」(Yosl Rakover Talks to God by Zvi Kolitz)。「希望を未来に託して現在を生きる」、「自分たちの苦難と信仰を紙に書き残し、将来の読者に届ける」、この信仰、この希望が神の国を招くのではないか。

・第二次大戦中のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)後、多くのユダヤ人は「神に見捨てられた」という思いをひきずっていた。「なぜ神は天上から介入して我々を救わなかったのか」、若いユダヤ人の中には信仰を棄てる人たちも出て来た。その時、ユダヤ教のラビ、エマニュエル・レヴィナスは、それは「大人の信仰ではなく、幼児の信仰だ」と語る。

-レヴィナス「困難な自由」から「人間が人間に対して行った罪の償いを神に求めてはならない。社会的正義の実現は人間の仕事である。神が真にその名にふさわしい威徳を備えたものならば、『神の救援なしに地上に正義を実現できる者』を創造したはずである。わが身の不幸ゆえに神を信じることを止めるものは宗教的には幼児にすぎない。成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるという形をとるはずである」。

・レヴィナス自身も両親や家族をホロコーストで亡くしている。その中での言葉だ。「成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるという形をとる」とレヴィナスは語る。D.ボンヘッファーは語る「神の前に、神と共に、神なしで生きる」(獄中書簡集から)。イエスは神の前に歩み、神と共に生きられたが、最後には神なしで死んでいかれた。しかし神はそのイエスを起された。そこに私たちの希望がある。私たちの人生においても、「神はいるのか」と思えるほどの不条理や苦難があるが、神はその不条理の中から私たちを起こして下さった。私たちもそれを体験した。だから私たちは復活を信じ、どのような苦難の中にあっても希望を持ち続ける事ができる。それが私たちの信仰ではないだろうか。

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