1.サムソンとペリシテ人との戦い
・サムソンはペリシテの女をめとるが、妻はサムソンの秘密を同胞のペリシテ人に漏らしてしまう。
−士師記14:17-20「宴会が行われた七日間、彼女は夫に泣きすがった。彼女がしつこくせがんだので、七日目に彼は彼女に明かしてしまった。彼女は同族の者にそのなぞを明かした。七日目のこと、日が沈む前に町の人々は彼に言った。『蜂蜜より甘いものは何か、獅子より強いものは何か。』するとサムソンは言った。『私の雌牛で耕さなかったなら、私のなぞは解けなかっただろう。』その時主の霊が激しく彼に降り、彼はアシュケロンに下って、そこで三十人を打ち殺し、彼らの衣をはぎ取って、着替えの衣としてなぞを解いた者たちに与えた。彼は怒りに燃えて自分の父の家に帰った。サムソンの妻は、彼に付き添っていた友のものとなった。」
・女の父親は妻をサムソンから離縁させ、同胞のペリシテ人の男に嫁がせた。
−士師記15:1-2「しばらくして小麦の収穫のころ、サムソンは一匹の子山羊を携えて妻を訪ね、『妻の部屋に入りたい』と言ったが、彼女の父は入らせなかった。父は言った。『私はあなたがあの娘を嫌ったものと思い、あなたの友に嫁がせた。妹の方がきれいではないか。その妹を代わりにあなたの妻にしてほしい。」」
・怒ったサムソンは報復にペリシテ人の畑を焼いてしまう。
−士師記15:3-5「サムソンは言った『今度は私がペリシテ人に害を加えても、私には罪がない』。サムソンは出て行って、ジャッカルを三百匹捕らえ、松明を持って来て、ジャッカルの尾と尾を結び合わせ、その二つの尾の真ん中に松明を一本ずつ取り付けた。その松明に火をつけると、彼はそれをペリシテ人の麦畑に送り込み、刈り入れた麦の山から麦畑、ぶどう畑、オリーブの木に至るまで燃やした」。
・このエピソードは伝説ではあろうが、ある面、事実でもあろう。獣に松明を結びつけ戦場で計略に用いたとする記録は、古今東西にかなりの例がある。イタリアに侵入したカルタゴの名将ハンニバルは、ローマ軍を混乱に陥れるために計略を用い、闇夜に2000頭の牛の角に松明を結びつけて山の斜面を登らせたのである。やがて角が焼けはじめると、牛は山中を走り回ったのでローマ側は、敵に包囲されていると思ったという。
・ペリシテ人たちは報復にサムソンの嫁と舅を殺す。サムソンはペリシテ人を殺し返し、エタムに逃れる。
−士師記15:7-8「サムソンは彼らに『これがお前たちのやり方なら、私はお前たちに報復せずにはいられない』。と言って、彼らを徹底的に打ちのめし、下って行って、エタムの岩の裂け目に住んだ」。
・ペリシテ人は報復のためにイスラエルに攻め入り、恐れたイスラエルの人々はサムソンを縛って、ペリシテ人に差し出す。サムソンと共に戦うイスラエル人はいなかった。しかし、主はサムソンと共におられた。
−士師記15:14-16「サムソンがレヒに着くと、ペリシテ人は歓声をあげて彼を迎えた。そのとき、主の霊が激しく彼に降り、腕を縛っていた縄は、火がついて燃える亜麻の糸のようになり、縄目は解けて彼の手から落ちた。彼は、真新しいロバのあご骨を見つけ、手を伸ばして取り、これで千人を打ち殺した」。
・ここには敵を殺すことに対する罪悪感はなく、殺した敵の数を誇る風潮がある。サウルやダビデの時もそうだった。「敵を愛せ」と言われた神の言葉は響いていない。敵を殺すことが正義である時代であった。
−サムエル記上18:5-7「イスラエルのあらゆる町から女たちが出て来て、太鼓を打ち、喜びの声をあげ、三絃琴を奏で、歌い踊りながらサウル王を迎えた『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』」。
2.サムソンの罪と悔い改め
・その後、サムソンはまたもペリシテの女に迷う。妻デリラは欲と同胞からの脅しの中で、サムソンに言い寄り、力の秘密を探ろうとする。デリラの度重なる哀願の前に、サムソンは自分の秘密を教える。
−士師記16:15-17「デリラは彼に言った『・・・三回もあなたは私を侮り、怪力がどこに潜んでいるのか教えてくださらなかった』。来る日も来る日も彼女がこう言ってしつこく迫ったので、サムソンはそれに耐えきれず死にそうになり、ついに心の中を一切打ち明けた『私は母の胎内にいた時からナジル人として神にささげられているので、頭にかみそりを当てたことがない。もし髪の毛をそられたら、私の力は抜けて、私は弱くなり、並の人間のようになってしまう』」。
・サムソンは髪の毛をそられ、力は彼を去った。彼は捕らえられ、目をくりぬかれて奴隷にさせられる。
−士師記16:20-21「サムソンは眠りから覚めたが、主が彼を離れられたことには気づいていなかった。ペリシテ人は彼を捕らえ、目をえぐり出してガザに連れて下り、青銅の足枷をはめ、牢屋で粉をひかせた」。
・サムソンの髪の毛はまた伸び始めた。サムソンは自分の罪を悔い、祈りの中に神との交わりが回復した。おごり高ぶるものは砕かれるが、その労苦の中から主の名を呼び求めれば主は再び答えて下さる。
−詩篇107:10-14「彼らは、闇と死の陰に座る者、貧苦と鉄の枷が締めつける捕われ人となった。神の仰せに反抗し、いと高き神の御計らいを侮ったからだ。主は労苦を通して彼らの心を挫かれた。彼らは倒れ、助ける者はなかった。苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らの苦しみに救いを与えられた。闇と死の陰から彼らを導き出し、束縛するものを断ってくださった」。
・サムソンは最後の力を振り絞ってペリシテ人と戦う。そこには自分の命をも捨てる真剣な祈りがあった。
−士師記16:28-30「サムソンは主に祈って言った『私の神なる主よ。私を思い起こしてください。神よ、今一度だけ私に力を与え、ペリシテ人に対して私の二つの目の復讐を一気にさせてください』。それからサムソンは、建物を支えている真ん中の二本を探りあて、一方に右手を、他方に左手をつけて柱にもたれかかった。サムソンは『私の命はペリシテ人と共に絶えればよい』と言って、力を込めて押した。建物は・・・そこにいたすべての民の上に崩れ落ちた。彼がその死をもって殺した者は、生きている間に殺した者より多かった」。
・新約聖書・ヘブル書はサムソンを信仰の勇者とする。彼は罪を犯しても幼子のように神に立ち返ることが出来た。放蕩息子の信仰が彼にはあったのだ。弱かったのに強いものとされたのだ。
−ヘブル11:32-34「これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました」。
3.サムソン物語をどう読むか
・勝村弘也は「サムソン物語雑考」の中で語る「士師記13〜16章に描き出されているサムソンの姿は、読者に独特の奇妙な印象を与える。サムソンは、ここで〈士師〉の一人に数えられているようではあるが、イスラエルをペリシテ人の抑圧から解放したわけでもなく、何らかの軍勢を指揮したわけでもない。彼はどこまでも単独で行動する〈テロリスト〉的な人物に見える。聖書の読者は当惑するほかない。」
・「サムソン誕生の経緯は極めて異常なのであるが、これは申命記史家がサムソンを全く特異な人物として描こうとしているからに他ならない。生まれてくる息子にではなく母親の方に厳格な食物規定が命じられる等の〈特異なもののモチーフ〉がくり返し出てくるのはこのためである。サムソンは、ふつうの士師でもナジル人でもない。しかし、まさにこの男からイスラエルの解放は〈開始〉されたと申命記史家は主張しているのである。サムソンによってペリシテ人に対する闘争は始まった。ペリシテからの救出ないし解放はダビデによって完成するが、サムソンはこのサウルからダビデへと続く展開の先駆者と見られていることになる。」
−士師記13:5「あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。その頭にかみそりをあててはなりません。その子は生れた時から神に捧げられたナジル人です。彼はペリシテ人の手からイスラエルを救い始めるでしょう」。
・旧約聖書「士師記」のサムソンとデリラの物語は、文学・美術・音楽・映画などで数多く取り上げられて有名だ。17世紀英国の叙事詩『失楽園』を書いたミルトンは、この物語をギリシャ悲劇の様式に倣った劇詩として創作した(闘士サムソン)。そこにはかつて天下無双の怪力を誇った英雄の姿はなく、妖艶な女性の魅力に負けた結果、敵方に囚われ、視力を奪われ、労役を科せられながら過去を内省して苦闘する人間の姿が描かれている。ジョン・ミルトンは41歳の時、過労で失明している。自らが失明して、彼は失明したサムソ
ンの悲しみと祈りを理解したのであろう。ミルトンは古代の詩人や預言者、ホメロスやティレシアスらをあげ、盲目が〈内面の目〉を培い、真の洞察に至ることを説く。彼は記す「盲目であることが悲惨なのではない、盲目に耐えられないことが悲惨なのだ。真理のための受難は、崇高なる勝利への勇気なのだ」。
・サムソンのように、失明を乗り越えた多くの先覚者たちがいる。紹介したい。
−2014年11月16日コンサート奨励から「全盲の玉田敬次牧師は神学校を卒業して宮城県の教会に牧師として赴任しますが、全盲の自分が晴眼者ばかりの教会に赴任して仕事が出来るだろうかという不安を持っていました。その彼に恩師が語ります「教会は牧師一人が働くところではなく、役員や会員が一緒になって奉仕する場所である。目に見える牧師はつい自分一人でやっていくことが多い。しかしあなたは目が見えないから、嫌でも信徒の手助けを借りなければならない。その方が真の教会の姿である」。玉田牧師はやがて故郷に戻り、芦屋三条教会の牧師になり、この教会から育った信仰者の一人が小森禎司先生です。小森先生も全盲でしたが、励ましを受けて明治学院大学で英文学を学び、やがて桜美林大学の教授となり、ジョン・ミルトン研究に生涯を捧げられました。ジョン・ミルトンは「失楽園」を書いたピューリタン詩人として有名ですが、41歳の時に過労で失明しています。盲目の中で口述筆記を通して「失楽園」を書いたミルトンを紹介する事こそ、自分に与えられた天命だと小森先生は思われたのです。」