1.サムソンの誕生
・ペリシテ人は、紀元前15-13世紀に、エーゲ海よりパレスチナ海岸に侵入した。それ以降、彼らの名によってこの地域は「パレスチナ」と呼ばれるようになった。またガザ、アシュドデ、アシュケロン、ガテ、エクロンに五大都市を築き、士師時代後期からイスラエル最大の強敵となった。そのペリシテ人からイスラエルを救い出すために、士師サムソンが起こされた。ペリシテ人との戦いはサムソンから始まり、サムエル、サウル、ダビデの時代(巨人ゴリアテもペリシテ人)まで続き、ローマ時代にはペリシテ人は滅んでいる。このペリシテ人と、現在のパレスチナ人(アラブ人)は民族的な関りはない。ただペリシテ人たちのかつての居住地(ガザとその近郊)に現在のパレスチナ人が住んでいる。
・サムソンは最後の士師である。この物語も士師記の主題(罪の犯し−神の懲らしめ−救済)の中で語られる。主はサムソン(=太陽の子)を母の胎内にいる時から選ばれた。
―士師記13:1-5「イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行ったので、主は彼らを四十年間、ペリシテ人の手に渡された。その名をマノアという一人の男がいた。彼はダンの氏族に属し、ツォルアの出身であった。彼の妻は不妊の女で、子を産んだことがなかった。主の御使いが彼女に現れて言った『・・・あなたは身ごもって男の子を産む。その子は胎内にいる時から、ナジル人として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう』」。
・ナジル人は神から特別の召命を受け、聖別(ナーザル)された者。強い酒を飲まないこと、髪をそらないことが求められた。洗礼者ヨハネもナジル人と呼ばれている。
―民数記6:2-8「特別の誓願を立て、主に献身してナジル人となるならば、ぶどう酒も濃い酒も断ち・・・ナジル人の誓願期間中は、頭にかみそりを当ててはならない・・・ナジル人である期間中、その人は主にささげられた聖なる者である」。
・サムソンは聖別された者として、人々の期待の中で生まれ、成長した。主は彼と共におられた。
―士師記13:24-25「女は男の子を産み、その名をサムソンと名付けた。子は成長し、主はその子を祝福された。主の霊が彼を奮い立たせ始めたのは、彼がツォルアとエシュタオルの間にあるマハネダンにいた時のことであった」。
・福音書の記述から、洗礼者ヨハネがナジル人として生活を送っていたことを窺い知ることができる。また、「ナザレの」イエスは、ナジル人のことではないかという説もある。ルカ2章の記述は士師記13章と相似する。
−ルカ2:39-40「親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」
2.ふさわしくないサムソンを用いられる主
・テイムナはかつてダン部族に割り当てられた土地であったが、サムソンの時代にはペリシテ人の町となっていた。サムソンは、その町で、ペリシテ人女性を愛し、結婚しようとする。両親は異民族女性との婚姻に反対するが、これも主の計画であったと士師記は描く。こうしてサムソンは仇敵ペリシテと関係を持つ。
―士師記14:3-4「父母は言った『お前の兄弟の娘や同族の中に、女がいないとでも言うのか。無割礼のペリシテ人の中から妻を迎えようとは』・・・父母にはこれが主の御計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかった。当時、ペリシテ人がイスラエルを支配していた」。
・婚礼に向かう道すがら、サムソンは獅子に出会うが、主の霊は彼と共にあり、彼は撃退する。やがて獅子の死骸に蜜蜂が巣を作り、蜂蜜ができた。死骸に触れるなとの戒めにもかかわらず、彼は死骸から蜂蜜を集める。
―士師記14:5-9「一頭の若い獅子がほえながら向かって来た。そのとき主の霊が激しく彼に降ったので、彼は手に何も持たなくても、子山羊を裂くように獅子を裂いた・・・しばらくして・・・獅子の屍を見ようと脇道にそれたところ、獅子の死骸には蜜蜂の群れがいて、蜜があった。彼は手で蜜をかき集め、歩きながら食べた」。
・婚礼の席で彼は飲酒し、なぞをかける。そのなぞを解くためにペリシテ人たちは彼の妻を脅し、妻は同族のためにサムソンを裏切る。この事件を契機にサムソンは30人のペリシテ人を殺す。
―士師記14:19「その時、主の霊が激しく彼に降り、彼はアシュケロンに下って、そこで三十人を打ち殺し、彼らの衣をはぎ取って、着替えの衣としてなぞを解いた者たちに与えた。彼は怒りに燃えて自分の父の家に帰った」。
・乱暴者サムソンがペリシテ人を殺した。神の民イスラエルは無割礼のペリシテの支配下にいてはいけなかった。ペリシテを恐れて何もしない民を奮起させるために主はサムソンを用いられた。ギデオンにせよ、エフタにせよ、不完全な人である。主は不完全な人を用いて御旨を行われる。ヘブル書は彼らを信仰の人として描く。
―ヘブル11:32-34「これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました」。
・主の御心はすぐにはわからないが、後になるとわかることが多い。ヨセフは兄弟たちの裏切りでエジプトに売られて苦労したが、やがて一族を救うために自分があらかじめエジプトに導かれたことを悟る。
―創世記45:4-8「ヨセフは兄弟たちに言った『私はあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです。・・・私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです』」。
3.サムソン物語に見る召命
・サムソンは士師にふさわしくない乱暴者であるにもかかわらず、士師記は最大の記述をサムソンについて行う(13−16章)。彼は当時イスラエルを占領し、支配するペリシテ人に、恐れず立ち向かった救国の英雄として描かれる。サムソン出生の記事は後の預言者サムエル出生の記事と多くの共通点を持つ。共に母親が不妊の女であったのに懐妊する。神の力がそこに働いていることを示す表現である。
−サムエル記上1:19-20「エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を御心に留められ、ハンナは身ごもり、月が満ちて男の子を産んだ。主に願って得た子供なので、その名をサムエル(その名は神)と名付けた。」
・サムソンもサムエルも、母の胎にいる時から祝福され、聖別されている。サムソンはイスラエルをペリシテ人から解放するために召され、サムエルはペリシテを征服する新しい王(ダビデ)を任用するために召される。
−サムエル記上1:27-28「私はこの子を授かるようにと祈り、主は私が願ったことをかなえてくださいました。私は、この子を主に委ねます。この子は生涯、主に委ねられた者です。」
・聖別されるとは、「主が常に共におられる」ことを意味する。危機の時に、イザヤもまた「共におられる方」を待望した。それがインマヌエル預言である。
−イザヤ7:14-15「それゆえ、私の主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、乙女が身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで、彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。」
・マタイはこの預言がキリスト誕生時に成就したと理解した。キリストもまたサムソン、サムエル、ダビデと同じように召されたとの信仰理解である。
−マタイ1:22-23「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」