2018年12月6日祈祷会(サムエル記上20章、主が間にある人間関係)
1.ヨナタンとの友情
・ダビデはサウル王に命を狙われ、サムエルの下に避難した。しかし、サウル王の気持ちを確かめなければ今後の展望はもてない。ダビデは彼に好意を持つ王子ヨナタンの下に行った。
−サムエル記上20:1-2「ダビデはラマのナヨトから逃げ帰り、ヨナタンの前に来て言った『私が、何をしたというのでしょう。お父上に対してどのような罪や悪を犯したからといって、私の命をねらわれるのでしょうか』。ヨナタンはダビデに答えた『決してあなたを殺させはしない』」。
・ヨナタンの立場は複雑だ。彼は王子として父の権威の下にあり、友としてダビデを愛している。ダビデはヨナタンにサウル王の気持ちを確かめるための試みを依頼し、ヨナタンはこれを引き受ける。
−サムエル記上20:5-8「明日は新月祭で、王と一緒に食事をしなければならない日です。あなたが逃がしてくだされば、三日目の夕方まで野原に隠れています。お父上が私の不在に気づかれたなら『ダビデは、ベツレヘムへ急いで帰ることを許して下さい、一族全体のために年ごとの生贄を捧げなければなりません』と答えてください。王が『よろしい』と言われるなら僕は無事ですが、ひどく立腹されるなら、危害を加える決心をしておられると思って下さい」。
・ヨナタンはダビデの依頼を誠実に受けとめ、父王サウルを試す。
−サムエル記上20:24-29「ダビデは野に身を隠した。新月祭が来た。王は食卓に臨み、壁に沿ったいつもの自分の席に着いた。ヨナタンはサウル王の向かいにおり、アブネルは王の隣に席を取ったが、ダビデの場所は空席のままであった・・・翌日、新月の二日目にも、ダビデの場所が空席だったので、サウルは息子ヨナタンに言った。『なぜ、エッサイの息子は昨日も今日も食事に来ないのか』。ヨナタンはサウルに答えた『ベツレヘムに帰らせてほしい、という頼みでした。彼は私に、町で私たちの一族が生贄をささげるので、兄に呼びつけられています。御厚意で、出て行かせてくだされば、兄に会えますと言っていました。それでダビデは王の食事にあずかっておりません。』」
・サウルは息子ヨナタンがダビデをかばうのを見て怒り狂う。「エッサイの子がこの地上に生きている限り、お前もお前の王権も確かではないのだ」。王権を奪われるという恐怖の中にサウルはある。
−サムエル記上20:30-34「サウルはヨナタンに激怒して言った『心の曲がった不実な女の息子よ。お前がエッサイの子をひいきにして自分を辱め、自分の母親の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。エッサイの子がこの地上に生きている限り、お前もお前の王権も確かではないのだ。すぐに人をやってダビデを捕らえて来させよ。彼は死なねばならない』。ヨナタンは、父サウルに言い返した『なぜ、彼は死なねばならないのですか。何をしたのですか』。サウルはヨナタンを討とうとして槍を投げつけた。父がダビデを殺そうと決心していることを知ったヨナタンは、怒って食事の席を立った」。
・ヨナタンはダビデに「王宮を離れて逃げる」ように伝える。二人は別れを惜しんで泣いた。
−サムエル記上20:41-42「従者が帰って行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。彼らは互いに口づけし、共に泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた。ヨナタンは言った『安らかに行ってくれ。私とあなたの間にも、私の子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合ったのだから』」。
2.主が間におられる
・ここにあるのは主の選びを私たちがどう受け入れるかという物語だ。サウルは主に選ばれて王になったが、委託を果たさずに主から捨てられ、新しい王としてダビデが選ばれた。ヨナタンはそのことを冷静に認める。そして「今は自分がダビデに慈しみ(ヘセド)を尽くすから、将来あなたが王になっても私の子孫にヘセドを尽くしてほしい」と語る。
−サムエル記上20:13-15「主が父と共におられたように、あなたと共におられるように。その時私にまだ命があっても死んでいても、あなたは主に誓ったように私に慈しみを示し、主がダビデの敵をことごとく地の面から断たれる時にも、あなたの慈しみを私の家からとこしえに断たないでほしい」。
・王権が交替する時、新王は前王の一族郎党を殺して、将来の禍根を絶つ。しかし、ダビデは王になってもそうせず、ヨナタンの息子を自分の客として迎える。「あなたの慈しみを私の家から断たないでほしい」とのヨナタンの友情に応えるためだった。
−サムエル記下9:6-8「ヨナタンの子メフィボシェトは、ダビデの前に来るとひれ伏して礼をした『メフィボシェトよ』とダビデが言うと、『僕です』と彼は答えた。『恐れることはない。あなたの父ヨナタンのために、私はあなたに忠実(ヘセド)を尽くそう。祖父サウルの地所はすべて返す。あなたはいつも私の食卓で食事をするように』」。
・人間は結婚の誓いさえ守ることが出来ないのに、敵同士であるヨナタンとダビデの間に誓いが成立した。そこには信仰に基づく愛がある。「主がとこしえに私とあなたの間におられるように」、誓いは「主が間におられれば」守ることが)来る。
−サムエル記上20:23「私とあなたが取り決めたこの事について、主がとこしえに私とあなたの間におられる」。
3.サムエル記上20章の黙想
・この個所に関し、東北学院大学・佐々木哲夫氏は解説する(2009.6.14日本基督教団・仙台南伝道所説教)。
−佐々木哲夫氏説教から「サムエル記は『ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた』(18:3)と語る。注目したい言葉は『契約を結び』という表現だ。『結ぶ』という原文の動詞は『切る』、契約を結ぶ際に犠牲を捧げる、犠牲を切り分ける行為に由来する。『私とあなたの間に主がとこしえにおられる』(20:42)とヨナタンは語るが、揺るぐことのない約束として、生涯にわたり、このダビデとヨナタンの友情は保たれる」。
−佐々木哲夫氏は続ける「ダビデとヨナタンの友情の特徴を、三つの側面から概観したい。一つは、識見を誤らせることがなかったという面である。父サウル王がダビデを殺すようにヨナタンと家臣全員に伝えた時に、ヨナタンは、『なぜ罪なき者の血を流し、理由もなくダビデを殺して、罪を犯そうとなさるのですか』と父を諫めている。彼らの友情は今日にも通じる価値観、倫理観を高めるように働いた」。
−「彼らの友情の特徴の二つ目は、歩む道を誤らせることがなかったということだ。彼らの使命観、召命観を見失うことがなかった。王子であるヨナタンが、ダビデに『イスラエルの王となるのはあなただ。私はあなたの次に立つ者となるだろう』と告げている(23:17)。王子であるヨナタンが、自分が歩むべき道、自分に与えられた使命をはっきりと認識し、それをダビデと共有した。彼らの友情は、自分の歩む道、自分の使命というものを二人で共有しているというところが特徴である」。
−「三つ目の特徴は、友人の困難を未然に防いだことだ。父サウルがダビデを殺すという決意がはっきりしていると知った時、彼はダビデを逃そうとする。野原に潜むダビデに、危険が迫っているので逃げるようにと知らせる。ヨナタンは正義を実行した」。
・佐々木哲夫は続ける。
−「これらの特徴は、ダビデとヨナタンの友情が、神の前に真実なもの、契約に裏打ちされたものであることを明らかにしており、彼らの人生を貫き通して存在したことを示す。ダビデとヨナタンという二人の歩む人生は、『幸せ』と同時に『不条理』にも遭遇するものであったが、自分のように友人、他者をも尊重するという彼らの基本姿勢は、生涯にわたり貫き通された」。
・「このダビデとヨナタンの友情というのは、彼ら二人だけのものではなくて、新約聖書にも出てくる」と佐々木氏は述べる。イエスは語られる「私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。 もはや、私はあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。私はあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である」(ヨハネ15:14-17)。これは信仰者に託された言葉である。イエス・キリスト、神との友人関係に、あなたがたはある。僕ではない、友であると言われる。ダビデとヨナタンの友情は神の真実に裏打ちされたものであるが、同時に私たちと神との関係も又、『友』と呼ばれるにふさわしい関係であるということをここで知らされる。これは同時に教会に託された言葉でもある。『キリスト者、教会は、神と共なる関係に生きる』という価値観が、この時代においても存在する」。