1.人生が不条理であっても
・コヘレトは人生の中に不条理があるのを見た。善人が必ずしも報われず、悪人が悪ゆえに滅ぼされることもない現実を彼は見つめる。
−コヘレト7:15「この空しい人生の日々に、私はすべてを見極めた。善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえに長らえることもある」。
・この考え方はヨブに近い。ヨブも自分の正しさが認められないことに不満を持ち、「神は無垢な者も逆らう者も共に滅ぼされる」と恨みを言う。
-ヨブ記9:22「だから私は言う、同じことなのだ、と。神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる、と。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう者の手に委ねられている。神がその裁判官の顔を覆われたのだ。ちがうというなら、誰がそうしたのか」。
・コヘレトもヨブも無神論者ではない。ただ世の現実を見たことにより、神の摂理が信じられなくなっている。しかし、本当にそうだろうか。第二次大戦中のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)後、多くのユダヤ人は「神に見捨てられた」という思いをひきずっていた。「なぜ神は天上から介入して我々を救わなかったのか」、若いユダヤ人の中には信仰を棄てる人たちも出てきた。その時、ラビ・レヴィナスは、それは「大人の信仰ではなく、幼児の信仰だ」と語った。
-レヴィナスの言葉「人間が人間に対して行った罪の償いを神に求めてはならない。社会的正義の実現は人間の仕事である。神が真にその名にふさわしい威徳を備えたものならば、『神の救援なしに地上に正義を実現できる者』を創造したはずである。わが身の不幸ゆえに神を信じることを止めるものは宗教的には幼児にすぎない。成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるという形をとるはずである。」
(レヴィナス「困難な自由、ユダヤ教についての試論」内田樹訳、国文社(2008)。
・「神を信じる者だけが、神の不在に耐えることができる。成人の信仰とはそのようなものである」と20世紀のレヴィナスは語る。コヘレトもそれは感じている。だから彼さえも「自分を相対化せよ。そのためには絶対的な神を畏れよ」と語る。
−コヘレト7:16-18「善人すぎるな、賢すぎるな、どうして滅びてよかろう。悪事をすごすな、愚かすぎるな、どうして時も来ないのに死んでよかろう。一つのことをつかむのはよいが、他のことからも手を放してはいけない。神を畏れ敬えば、どちらをも成し遂げることができる」。
・自分を絶対視しない生き方こそ、この不条理な世で、人生をまっすぐに生きることを可能にする。「善のみ行って罪を犯さないような人間は、この地上にはいない」、「あなた自身も何度となく他人を呪った」、自分の罪を知ることにより、他者を赦すことが出来、そのことが人間関係をまっすぐにする。
−コヘレト7:19-22「知恵は賢者を力づけて、町にいる十人の権力者よりも強くする。善のみ行って罪を犯さないような人間は、この地上にはいない。人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕があなたを呪っても、聞き流していられる。あなた自身も何度となく他人を呪ったことを、あなたの心はよく知っているはずだ」。
・それはイエスが言われた「鳩のように素直に、蛇のように聡く」という生き方だ。
-マタイ10:16「私はあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」。
2.知恵によって生きる
・コヘレトは知恵を求めた。しかし知恵は与えられなかった。
−コヘレト7:23-25「私はこういうことをすべて、知恵を尽くして試してみた。賢者でありたいと思ったが、それは私から遠いことであった。存在したことは、はるかに遠く、その深い、深いところを誰が見いだせようか。私は熱心に知識を求め、知恵と結論を追求し、悪は愚行、愚行は狂気であることを悟ろうとした」。
・ヨブも知恵を求めたが与えられなかった。人は全てを知ることは出来ず、神の領域に属することは、人の目からは隠されている。
-ヨブ記28:21-23「すべて命あるものの目にそれは隠されている。空の鳥にすら、それは姿を隠している。滅びの国や死は言う「それについて耳にしたことはある」。その道を知っているのは神。神こそ、その場所を知っておられる」。
・隠れたる神の系譜は旧約聖書、マルティン・ルター、パスカル、カール・バルトに連なる考え方である。松木真一は「神の探求、現代のニヒリズム」の中で次のように語る。
-神の探求「マルティン・ブーバーは『生ける神は自己を啓示するばかりでなく、自己を隠す神である』とする 。神の隠れとは、神と人間との間に理性的自我が介入して神の光を遮断している状態を言う。神が顔を隠すことにより人間の責任が求められる。それをボンヘッファーは『神は彼岸の救済を意味するのではなく、人間を現実に向き合わせ、此岸での責任を負わせる。私たちは神の前に、神とともに、神なしで生きることが求められている』と表現する。現代人は成人した世界ではなく、未成人のままの世界であり、その中で人々はニヒリズムの暗闇に落ち込み、その結果自殺者が増加している。ニヒリズム(無関心)は無神論より悪い。無神論は神との対峙の中に生まれるが、無関心にはなにもない。無関心な状況においてはあらゆる関わりが断絶してしまう」。
3.コヘレトは女性蔑視論者なのか
・コヘレトは愚行の狂気を「誘惑する女性」の中に見た。
−コヘレト7:26-27「私の見いだしたところでは、死よりも、罠よりも、苦い女がある。その心は網、その手は枷。神に善人と認められた人は彼女を免れるが、一歩誤れば、そのとりことなる。見よ、これが私の見いだしたところ、コヘレトの言葉、一つ一つ調べて見いだした結論」。
・これは男性から見た視点だ。箴言でも女性はしばしば誘惑の対象として気をつけよと注意されている。
-箴言7:21-27「彼女に説き伏せられ、滑らかな唇に惑わされて、たちまち、彼は女に従った。まるで、屠り場に行く雄牛だ。足に輪をつけられ、無知な者への教訓となって。やがて、矢が肝臓を貫くであろう。彼は罠にかかる鳥よりもたやすく、自分の欲望の罠にかかったことを知らない。それゆえ、子らよ、私に聞き従い、私の口の言葉に耳を傾けよ。あなたの心を彼女への道に通わすな。彼女の道に迷い込むな。彼女は数多くの男を傷つけ倒し、殺された男の数はおびただしい。彼女の家は陰府への道、死の部屋へ下る」。
・彼は言う「知恵ある男はいたが、知恵ある女はいなかった」、コヘレトは父権制社会の中で生きている。だから彼がこのような見解を持つのは止むを得ないかもしれない。
−コヘレト7:28「私の魂はなお尋ね求めて見いださなかった。千人に一人という男はいたが、千人に一人として、良い女は見いださなかった」。
・私たちはパウロの理解に、神の御心を見る「キリスト・イエスにあっては、男も女もない」。男だから、女だからという区別はない。あるのは人による能力差と教育の機会の有無であろう。
-ガラテヤ3:26-28「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。
・そして彼が最後に見出した結論は「人間の過ちの責任は人間にあるのであって、神にはない。人間の不幸や苦難は人間から来る」ことである。これはレヴィナスの考え方と同じだ。レヴィナスは語った「わが身の不幸ゆえに神を信じることを止めるものは宗教的には幼児にすぎない。成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるという形をとるはずである」。
−コヘレト7:29「ただし見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる、ということ」。
・前述の松木真一は語る「コヘレトやヨブのような懐疑こそ、神を見出す道ではないかと。
-神の探求「現代人は神に対する懐疑を持たざるを得ない。しかしそれで良いのである。『疑うことを知らぬ信仰は死んだ信仰である』(ミゲル・ウナムーノ)。真摯な懐疑こそ信仰の確証を担保する。全てを無意味とするニヒリストも、現に生きており、その人の生は肯定され、受容されている。彼に足りないものは「受容されていることを受容する勇気」(ティリヒ)である。ニヒリスティックな現代人が神を経験できるとすれば、それは「懐疑する真剣さ」にかかっている。無神論・偶像崇拝・狂信は同じ平面上にある。私たちは疑いつつ、疑いきれないものに出会った時に、神を見出すのではないか」。